「俳句スクエア集」2024年 7月号鑑賞
加藤直克
蛇苺巴水ブルーの夢を見て 石母田星人
巴水とは明治から昭和にかけて生きた版画家、川瀬巴水のこと。海外では北斎、広重にならぶ版画家と評価されているという。その巴水の版画にことごとくと言っていいほど現れる青色は、巴水の内面の基層を象徴しているように見える。掲句では鮮やかな蛇苺の赤を配することで青を際立たせると同時に、「夢を見て」の措辞でさらにその深みを表現しているように見える。
蝸牛堂守なべて愚直なる 朝吹英和
「堂守」は神社仏閣の維持管理をする人。「なべて」は幾人かの「堂守」が皆ともとれるが、「堂守」というものはという一般論を述べているのだろう。というのも「蝸牛」のひっそりとした寡黙さと響き合うからである。いやむしろ「蝸牛」こそこの社の「堂守」であるということかもしれない。どこか芭蕉の「詫び」の世界に通じるような気がする。
蝉しぐれ未生以前の音をきく 松本龍子
「未生(未生)=未だ生まれざる」は禅の公案(=問題)では「父母未生以前本来の面目」、すなわち影も形もない自己とは何かという問いである。夏目漱石の『門』で主人公の宗助が取り組んだ問いであるが、じつは漱石自身が釈宗演老師から与えられた。われわれも景色や対象と一体となって「我を忘れる」ということはよくあるが、禅ではむしろその経験こそが先で「我=自己」が後だということ。掲句では「蝉しぐれ」そのものの中には「蝉」もそれを聴く「自己」もないということであろう。いいかえれば「音をきく」という「こと=如今」だけがあって、そこに自己はないということになる。
山路には禁忌あるとや落し文 大津留直
「落し文」には二つの意味がある。一つ目は恋文などを渡したい人に拾わせるためにそっと落としておくもの。しばしば間諜が情報を伝えるためあえて山道などに落とすこともあるという。もう一つは葉っぱに卵を産み付けてそれをくるりと巻いたものを地面に落とす甲虫。掲句では「禁忌」の意味するところが定かではないが、「落し文」は他人に読まれてはならぬゆえに「禁忌」であることは確かである。さらには恋文から「禁忌」がエロスに通じることも窺える。恋の道もしばしば険しい山路に喩えられている。
軍荼利の滝のしぶきや実盛忌 干野風来子
掲句は埼玉県熊谷市の妻沼(めぬま)聖天山にて詠まれたと推察される。というのもこの聖天山は当時ここを治めた斉藤実盛が創建したものと伝わるからである。実盛と言えば平家物語にその子木曽義仲に討ち取られる場面が有名である。そして木曽義仲と言えば倶利迦羅谷の合戦が有名であり、この倶利迦羅は軍荼利(ぐんだり)の別名である。さらに軍荼利は聖天すなわち歓喜天という男女交合を表す神であり、宇宙のエネルギーの流れそのものであるという。ハタ・ヨーガでいうグンダリニーに通じるらしい。そこから滝のエネルギーにつながるのであろうが、とりあえず句の背景に思いを寄せるだけでも楽しい。
メンヘラの君夏めいてゐて痛し 福本啓介
メンヘラはメンタルヘルスに問題を抱えた人という意味。引きこもりがちの人が酷暑にあえぎつつ耐えている様子が思い浮かぶ。そこをあっさり「夏めいてゐて」と表現されると、どこか無理矢理な感じがあってそれが「痛し」に通じるのかなと思う。今年に限らないが、これだけ夏がきついと熱中症になる前に気持ちが参ってしまう。まさに共感できる句である。
目覚めれば泡沫となり海月追ふ 岩永靜代
泡沫(うたかた)といえば、方丈記の「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」が思い浮かぶ。夢と現実の往還もまさに泡沫の比喩がぴたりである。夢の世界がよほど満足のいくものだったとはいえ、目覚めた後のこの体と自分は海月のごとく三千世界を揺蕩っているように見える。しかし掲句における「海月追ふ」には諦観を超える俳味を感じる。煩悩の哀歓を味わい尽くすというたくましさを感じるからである。
配慮した言葉響かず薄暑光 生田亜々子
心に刺さる句である。相手の誤解を避けながらなんとか意図を汲んでもらおうと工夫した言葉が響かず、かえって仇となって事態を難しくすることはよくある。その途方に暮れた感じと薄暑光の明るさがなんとも不釣り合いで、かえって実感がこもっている。
くちなしの花に空虚な歴史詰め 石川順一
「空虚な歴史」という言葉は、考えればいろいろなことが浮かんでくる。いずれにせよ歴史は何者かによって語られ、かつ読まれなければ歴史とはならない。掲句の「詰め込まれた空虚な歴史」は内容のない、支離滅裂なという意味なのであろうが、「くちなし」の開かれざる口の中は「空虚」と言うしかないのだろう。そこには歴史を消され、改ざんされた人々の怒り、苦しみも込められているに違いない。私たちは今すでに「くちなし」になってはいないだろうか。
青空に振れば雲入る捕虫網 赤塚康二
子供の頃は虫取り網で何時間も遊んだ。何か特別な昆虫を目当てにしていたことはほとんどない。ただ草むらで振り回すだけで思いも掛けないものが捕まったりして楽しかった。でも飼う気は起こらないのでほとんど逃がしてやった。考えてみれば掲句のように一日中雲を捕まえていたと言ってもいいのかもしれない。まさに雲をつかむ話である。
雷光を連れて眼科へ急ぎけり 五島高資
作者は最近思わぬ眼の不調を経験したと仄聞している。その後回復されたようでほっとしているが、その意味で事実に即した実景なのであろう。「雷光」は作者の第一句集の題名でもある。さらには宇都宮は夏の雷が名物ということで「雷都」の異名があり、開通1周年のトラムであるLRT(Light Rail Train)のLightも実は「雷都」が引っ掛けてあるという話である。ということであまり内容的な鑑賞ではないが、このような句も作られるのだなあと思ったので取りあげてみた。
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「俳句スクエア集」2024年 7月号 好句選
五島高資
象の眼が螢籠より出てゆきぬ 石母田星人
薬玉の香に包まれし受洗かな 朝吹英和
蝉しぐれ空の深淵よみがへる 松本龍子
気球割れうすむらさきの桔梗咲く 加藤直克
山路には禁忌あるとや落し文 大津留直
大楠の上が明るい若葉光 児玉硝子
山頭火の錫杖過ぎし青野かな 和久井幹雄
声明の杜に染み入る実盛忌 松尾紘子
軍荼利の滝のしぶきや実盛忌 干野風来子
メタバースとふ大それた朧あ 福本啓介
ところてん骨は痛みを感ぜざる 岩永靜代
遠雷や光った後に音は来ず 生田亜々子
白南風や彼の人の声遠くより 於保淳子
片付けは日記か走り梅雨の空 石川順一
青空に振れば雲入る捕虫網 赤塚康二
風薫る空き容量はまだ有るさ 東門杜松
郭公や目覚むる宿の仮枕 栗山豊秋
あぢさいや今朝の気分の色を剪る 石田桃江
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Copyright (C) Takatoshi Gotoh 1998.3.1