「俳句スクエア集」2024年 6月号鑑賞
加藤直克
天空を吊る一本の蜘蛛の糸 石母田星人
芥川龍之介の名作では「蜘蛛の糸」では極楽から地獄へと吊るされているが、掲句では「天空を吊る」すなわち極楽を吊るすという逆転の発想が見られる。そもそも救済がテーマである限り、極楽が極楽であるのは地獄で苦しむものの憧憬もしくは祈りがあってのことであり、そこに極楽と地獄が逆転する、あるいは相対化される可能性がある。しかし掲句ではそのような込み入った話は無用とばかりにひたすら静謐な空間の開けのみが感じられる。
暴れ打つ天突き太鼓夏立てり 朝吹英和
夏祭のクライマックスである。「天突き太鼓」は作者の造語なのであろうが、「天突き」がまさに「テンツクテンテン」という太鼓の音を模しつつ、「暴れ打つ」で乱舞する肉体の臨場感が際立っている。下五も単に「夏祭」と収めるのではなく、「夏立てり」としてバチを高々と掲げる様子が目に浮かぶ。見事な一句である。
青大将月を銜へて泳ぎだす 松本龍子
エロス的な幻想に満ちた句である。季語は青大将。夜、川面に映る月を青大将が横切っていったということか。蛇は古来、世界的に恵みと破壊の二面性を備えた川の神の姿として信仰されており、日本にも蛇神信仰がある。月もまたギリシア神話のアルテミス(ディアナ)を持ち出すまでもなく女性神として崇められていることから、蛇と月とは親和性があるように思われるが、「月を銜えて」に独特の感性が漂う。
隠沼の闇すさまじき聖五月 大津留直
隠沼は「こもりぬ」と「かくれぬ」の二つの読み方があるようだ。「闇」をどう読むかでどちらの読みがふさわしいかが決まるような気がするが、そこは読者の解釈に任されているのであろうか。「聖五月」はキリストが十字架に掛けられて50日後に起こった聖霊降誕、いわゆるペンテコステの祭ということであろう。ここはキリスト教の起源と教会の成立に関わるところであり、それだけに「闇」の措辞がただならないものであるような気がするが、これ以上の解釈は控えておきたい。
春光を包みて落つる輸液かな 今井みさを
病院で点滴を受けている景が浮かぶ。輸液の一滴一滴が命を支える確かな証しなのかもしれない。であればこそそこに込められた祈りや希望は「春光」のぬくもりに包まれているのであろう。たんたんとした静けさの中に命が息づいている。
青葉同心見上げれば百年先 児玉硝子
「青葉同心」は作者の句集の名である。筆者は残念ながら読んでいないのでこれ以上紹介はできないが、同句集に「百年後もういないけど木の芽和え」の句があるという。「同心」は江戸時代の警察組織で、下級役人の「岡引き」に対する上級役人のこと。「青葉」とあることから若くはつらつとした「同心」像が浮かんでくる。「青葉同心が見上げれば」と意を汲んで読めば「百年先」をも見通すということであろうか。先の句の「百年後」と合わせて考えれば「百年先」は現代のことなのかもしれない。
薬玉や無間奈落に吊れば花 眞矢ひろみ
上記「蜘蛛の糸」の句との関連で掲句に注目した。「無限奈落」はおそらく「無間地獄」と同じ。「奈落」はそれだけで「地獄」のことだが、歌舞伎など劇場の地下空間をも意味する。「薬玉」は5月の節句に柱などにつるし邪気を払う縁起物。もともと薬効成分の詰まった玉であることから救済の象徴と読めば、地獄にこそ咲く花という措辞がピタリと決まる。
おぼろげに海に母ゐる達治の忌 和久井幹雄
三好達治の有名な詩に「乳母車」があり、「母よ―淡くかなしきもののふるなり」で始まり、途中に「母よ 私の乳母車を押せ」とある。そこには海の情景は出てこないが、「旅いそぐ鳥の列にも 季節は空を渡るなり」で「おぼろげ」ではあるが海の光景に通じるような気もする。掲句における海と母のつながりは日本人の心の原郷として心の底に横たわっているのであろう。
地虫出づSNSの闇の森 福本啓介
筆者は老人のせいかSNSとは関わりを持ちたくない気持ちであるが、掲句では「地虫」と関連づけたところが面白い。「バズる」という言葉があるようだが、なぜか「地虫」に響きが通じるような気がする。とすればSNSは闇鍋のようなものかもしれない。「地虫」だろうが何だろうが食べてみなければ一人蚊帳の外にいるほかはないのかもしれない。
鳥網張る黄泉平坂花茨 岩永靜代
「鳥網」には「とあみ」と「となみ」の二つの読み方があるようだ。どちらも木の枝に網を張って鳥を捕らえる仕掛けである。それが黄泉平坂、すなわち黄泉の国とこの世の境界をなす坂に張ってあるという。逃げてゆくイザナミを返したくないというイザナミの怨念が鳥網のかたちを取ったのだろうか。花茨といえば蕪村の「愁ひつつ丘にのぼれば花いばら」が浮かぶが、棘があって容易に通り過ぎることを赦さないという意味で鳥網に重なる。句の意味は深刻であるが、「ア」母音が連なる響きは明るく、不思議な魅力を湛えている。
やかましき第九が嫌ひみづすまし 干野風来子
果たして「みずすまし」は「第九」が嫌いだろうか、と反問するそばから笑みがこぼれる。「みずすまし」自体は相当忙しく動き回る生物である。もちろん音を出すことはないが・・・「やかましい第九」にも第3楽章のように天国的な静けさもあると言いたくなる。この句を読んで「みづすまし」から「耳すまし」の響きを感じ取れた気がした。「耳すまし」はこの世のすべての音を聞き取ろうとする「観音」様に通じるのかもしれないと思ったのである。
夏草や羊群遠く空澄みて 於保淳子
最初「羊群」をどう読むか迷ったが「ようぐん」と読むのであろう。大和言葉の響きの中に漢語の「羊群」を置くと、日本であって日本でないような不思議な感じがする。すると夏草も広々とした中央アジアのステップの光景であるような気がしてくる。かくて空間の広がりを感じれば感じるほど空も澄みわたるような気がしてくる。
竹皮を脱ぐ欲望の清らなり 五島高資
「竹皮を脱ぐ」は、筍が若竹に成長する過程で保護膜の役割を果たしていた皮を脱ぐこと。夏の季語とされている。子供の成長や大人に成り行く過程が暗示されているが、それを掲句では「欲望」と大胆に表現しつつ、「清らなり」と収めている。考えてみれば子供が大人になることも自然であれば、異性への関心の目覚めもおのづからなるものである。それが他の動物の違うのは人間が言葉を持つからである。言葉の介在しない欲望、いいかえれば妄想でない欲望はありえない。その意味で欲望の根本は本来清浄なのである。俳句も妄想言語のおのづからなる浄化あるいは昇華によってポエジーが生まれるのではないだろうか。
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「俳句スクエア集」2024年 6月号 好句選
五島高資
天空を吊る一本の蜘蛛の糸 石母田星人
薬玉の香に包まれし受洗かな 朝吹英和
青大将月を銜へて泳ぎだす 松本龍子
どしゃぶりの中のウグイス変奏曲 加藤直克
隠沼の闇すさまじき聖五月 大津留直
春光を包みて落つる輸液かな 今井みさを
唐十郎のラムがひと瓶修司の忌 児玉硝子
ひるすぎの方舟を曳く合歓の花 眞矢ひろみ
白馬ゐて馬にあらざる三鬼の忌 和久井幹雄
スマホ置く春満月の夜なれば 福本啓介
水中花息を殺してゐる真昼る 岩永靜代
花は葉に人恋しさに季などなく 生田亜々子
慈雨は地にさても実盛忌を修す 干野風来子
夏薊さきたま古墳群はるか 松尾紘子
聖五月オルガンの満つ美術館 於保淳子
動くダニ動かぬをダニを動かして 石川順一
小包に母の文あり更衣 赤塚康二
益荒男の子どもかへらず草刈機 東門杜松
筆塚を包む若葉の風とをり 島田淳平
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Copyright (C) Takatoshi Gotoh 1998.3.1