「俳句スクエア集」2024年 5月号鑑賞

                   

                         加藤直克





心柱垂るるを思ふ暮春かな         石母田星人

       

 心柱は仏塔などの中心となる柱。五重塔の中心には底部を固定されていない心柱が前後左右のバランスを取りながら全体を支えている。さらには物語などの中心人物を指すともいう。その心柱は本来確固としてそそり立つイメージであるはずであるが、掲句では「垂るる」とある。ここをどう読むかがこの句の眼目なのだろうが、あれこれと想像はできてもピタリとこないもどかしさがある。「垂るる」という連体形は心柱に係ることを思えば、「暮春」の心情そのものが慈愛を含んだ「垂るる」の措辞を生んだのではないだろうか。



老犬の青き瞳や新樹光            朝吹英和


 不思議な魅力を湛えている句である。老犬の瞳を覗き込んだことはあるが、そこに「青さ」を感じたことはない。むしろ白内障で白濁した瞳に哀れみを感じたことは鮮明に覚えている。もちろん新樹光の季語から「青さ」を感じることは自然である。しかしそれは老犬の瞳に映り込んだ「青さ」でしかない。ここはやはり老犬の心から湧き出る「青さ」でなければならないはずだ。サミュエル・ウルマンの「青春とは心の若さである」という警句を思い出した。



たわむれに龍の背に乗る御柱         松本龍子


 7年に一度行われる諏訪大社の御柱祭。そのクライマックスは「木落し」と呼ばれる樅の大木を人が乗ったまま崖の上から引きずり落とす行事。その大木を「龍」に見立てた掲句であるが、「たわむれに」が意味深長である。大木に乗るのはおそらく選ばれた特別の人なのだとすれば、「たわむれに」は違和感がある。しかしそれも人間がそこに乗っているとすればの話で、もしも神のために人身御供となっていると考えれば、「たわむれに」はまさに「神が人となって」ということなのだろう。



春の暮よく鳴る鈴のがらんどう         眞矢ひろみ


 掲句の「鈴」は神社の拝殿の鈴と読んだ。おそらく大柄の鈴であり、注連縄も立派なのであろう。しかし「春の暮」ではお参りに来る人もそれほどいないように思う。そこへ参拝にやってきた人が思いがけなく盛大に鈴を振った。鈴が鳴るのは「がらんどう」だからだ。「がらんどう」だからこそ神と人とが出会うことができる。句の意外さの中に「春の暮」が生きている。



幣こぶし風の拓きし御空あり          和久井幹雄


 「幣辛夷」とも書くようだ。「幣」は「四手」とも「紙垂」とも書き、玉串や注連縄に付ける紙製の飾り。「幣こぶし」は日本古来の辛夷の一種で、その花びらが細い紙のようであることから命名されたらしい。「風の拓きし」は風が雲を払ってということか。御空の青を背景に「幣こぶし」の白が清々しく映える景が浮かぶ。



咲きさうなすみれ一輪旅終る          福本啓介


 同じ作者の「夭折といふ別れありすみれ草」と対になっているのかもしれない。「すみれ」と夭折された誰かが重なる。この「すみれ」は「咲きそう」ではあるが、咲くまでに至らなかった。それほど短い命だったのだろうか。しかもたった「一輪」。この「一輪」は作者あっての一輪であり、一期一会の出会いと、その後の作者と夭折された誰かが共に辿ってきた「旅」と読める。その「旅」が終わったのだ。



花過ぎの逢魔が刻の路地に入る         松尾紘子


 「逢魔が刻」はいわゆるトゥワイライト、昼でも夜でもないという意味で魔界の力が跋扈する。それゆえ「魔に遭遇する」ということで「逢魔が刻」という。「たそがれ」の「誰ぞ彼」、「かはたれ」の「彼は誰」も同じようなニュアンスがあるのかもしれない。「花過ぎ」は桜の散った後ということか。人生の盛りを過ぎたという感慨も含まれているようだ。そのようなもろもろの思いの中での謎めいた出会いを暗示する「路地」。諦観となお心の底に犇めくさまざまな思い。ニュアンスのゆたかな句である。



小包に母の文あり更衣           赤塚康二


 「小包」という言葉に昭和のニュアンスが漂う句。いや母親の心は時代を超えているのだろう。「更衣」とあるから「小包」には夏用の衣類が入っていたのだろうが、それ以外にも食料品やスイーツなどもろもろ入っていたかもしれない。そして最後に走り書きのメモ。掲句の「母」はまさにうっとうしいほどの愛情の塊であり、それが「小包」という形に表れている。



脳天さんの帰りは登る孔雀羊歯      五島高資


 「脳天さま」は蔵王権現を祀る金峯山寺蔵王堂から500m程下ったところにある脳天大神のこと。蔵王権現はインドに起源を持たない日本独自の仏で、修験道の本尊である。金峰山寺初代管長の五條覚澄大僧正が修行の場を求めて谷に下ったとき、頭を割られた蛇に遭遇して菩提をとむらった。すると夢枕に立った蛇(じつは蔵王権現)がお礼を述べ、自分を祀れば首から上の病を治すと告げたという故事による。「脳天さま」にお参りして戻るときはもと来た道を上っていかなければならないのであろう。そこで目にしたのが孔雀羊歯であった。平明な句ではあるが、霊的世界と霊的体験が感じられる。






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  「俳句スクエア集」2024年  5月号 好句選

                   

                         五島高資




  かざぐるま偶に銀河の音を吐く       石母田星人


  老犬の青き瞳や新樹光           朝吹英和


  縄文の風が土偶の乳房にも           松本龍子


  八重桜花芯に火口あるご            加藤直克


  鳥居より一気に海へ初燕          大津留直


  春宵の鶴となりたる薬包紙           今井みさを


      駅ビルを守って咲いて散るさくら      児玉硝子


  春の暮よく鳴る鈴のがらんどう       眞矢ひろみ


  義疏筆を擱きし太子や春闌ける         和久井幹雄


  咲きさうなすみれ一輪旅終る        福本啓介


  斎場に煙突のなし亀鳴ける         岩永靜代


  バスを待つ人を見ておりチューリップ    生田亜々子


  まむし草ヒエログリフのやうに風      干野風来子


  花過ぎの逢魔が刻の路地に入る       松尾紘子


  山桜寺の中には猫が居る          石川順一


  小包に母の文あり更衣           赤塚康二


  自らに問ひかける我神の留守        東門杜松


  目に沁みる青葉若葉や寿命伸ぶ       石田桃江






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