「俳句スクエア集」2023年 6月号鑑賞 Ⅰ
加藤直克
飛魚や水惑星の外を知る 石母田星人
水中を飛び出した飛魚は、人間でいえば大気圏を飛び出したことに等しいのだろう。ガガーリンの「地球は青かった」という言葉を思い出して年がバレるが、荘子の「逍遙遊」編の鵬の飛翔もよみがえる。もちろん飛魚はマグロやカジキから逃れるための命がけの飛翔で、あらためて水惑星を観察する余裕はないのだろう。それでも私たちの日常にも異次元への扉はふいに開くのかもしれない。帰還できるかどうかは定かではないが。
姿見の中は転生の螢かな 松本龍子
句意はそれほど難しくないと思う。姿見に映しだされた女の姿が、前世は蛍であったと思わせる妖艶さがあったということであろう。そこからさらに連想を進めると、やはり源氏物語の「蛍の巻」を思い起こす。そこでは光源氏が薄衣を几帳に掛けた途端、薄衣に包まれていたたくさんの蛍が光り、玉鬘の姿が浮かび上がるという情景であった。玉鬘は蛍の生まれ変わりとしては描かれていないが、私たちが生まれ変わりを意識するその一瞬は、日常の感覚を超えたものであろう。その消息こそこの句の眼目なのではないだろうか。
竹林の聴くしづけさや夏銀河 大津留直
竹林としづけさと夏銀河という三つのテーマが「聴く」という動詞によって統一されている。ここで「聴くのは誰か」が問われないところが日本語の特質である。竹林が聴いているのでも、夏銀河が聴いているのでもない。英訳しようとすると「聴く」のは人間だからI hearとなる。あるいはhearingと分詞構文にして、主語を消すこともできるが・・。しかし「聴く」主体の「無」こそがまさにこの句の眼目であろう。仏教的には「如」ということになるのであろうが、俳句としてはただ「聴く」である。
ゴールデンウィーク夢中のち疲れ 生田亜々子
ある意味でありふれた日常を素直に詠んだ句といえる。でも声に出してみると、韻律のおもしろさに惹かれた。というのもゴールデンウィークで切ってしまうと、なんだか分からなくなってしまうからである。ということは次の「夢中」まで切ってはいけないのである。「ゴールデンウィーク夢中」と突っ走って、そこで切れて「のち疲れ」とべつの調子が来る。するとにわかにリアルな感じが迫ってくるのである。もちろんかすかな諧謔というか滑稽さも。
汗あゆる仮眠の後に放心し 石川順一
「汗あゆる」の「あゆる」が分からなかったので調べた。すると「零(あ)ゆ」で、「こぼれ落ちる」「したたり出る」という意味であることがわかった。汗だくになるほどの仮眠はたしかに体力的な消耗があるのだろう。まさに「放心し」である。いろいろと勉強になりました。
五月闇貧しき街は夜光る 眞矢ひろみ
五月闇というと五月雨の頃の厚い雲に覆われた暗さということになっている。五月雨は旧暦では6月で梅雨のさなかの暗さなのであろう。暗さはそのまま音もなく夜と同化し、さびしい町にも明かりがともる。もとより昼間からあまり人影は見られない。かといって人の営みがないのではない。夜になればそこここに明かりがともり、飲み屋、料理屋に人の声も聞こえるのかもしれない。そこに作者の共感が息づいているように思える。
とことはの片蔭や人影の石 五島高資
原爆の強烈な光によって刻印された人影の石。それは消えることのない叫びであると同時に告発であり、証言である。碑文に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という言葉とそれをめぐる論争もこの人影の前に色を失う。「とことはの」は人類が消えた後を暗示しているようにさえ思われる。
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「俳句スクエア集」2023年 6月号鑑賞 Ⅱ
和久井幹雄
風鈴を吊す宇宙に手を入れて 石母田星人
風鈴と云えば、江戸情緒あふれる江戸風鈴を想い出す。「風鈴を吊す」という日常の所作から、いきなり「宇宙に手を入れて」への転位は、情緒纏綿の世界を突き抜けており、この飛躍こそが星人俳句の特徴といえる。風鈴の形から宇宙の形を連想することも可能であろう。
郭公の木霊吸ひ込む火焔土器 朝吹英和
火焔土器は縄文土器の一種で、岡本太郎がその芸術性を高く評価して有名になった。対照的に思い浮かんだのが、上野の東京文化会館大ホールの壁に張られた雲形をした音響拡散板である。音響拡散板は音を程よく反響させるための明らかものであるが、火焔土器の形状からは、何か周りの眼に見えないものを内部に吸い込もうとする不思議な霊気を感じる。「郭公の木霊」は縄文の息吹に繋がっているように想える。
螢火や無数の点と交はりぬ 松本龍子
螢火といえば、アニメ映画『火垂るの墓』の冒頭で、サクマ式ドロップス缶の周りを点滅して飛び交っていた螢を思い出す。掲句は一句目の《姿見の中は転生の螢かな》を受けた句であろう。古代人は空を飛ぶものは霊魂を運ぶものと信じられていた。無数の点の一つ一つが「たましひ」であり、死者は生者となって転生し、巡り合いと別れを繰り返している。この場合の「螢」は旧漢字でなければならないであろう。
嵌め殺し窓の向こうの昭和の日 生田亜々子
「昭和の日」は、以前は「みどりの日」その前は「天皇誕生日」と変遷を繰り返し、平成19年から「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」という主旨で施行された。「嵌め殺し窓」は建築用語で開閉が出来ないように固定された窓である。過ぎ去った時代の空気に直接触れることは出来ないように、昭和という時代を偲ぶとき「嵌め殺し窓」の持つ閉塞感が絶妙に利いている。
帚木の浮かんで昼の星むすぶ 五島高資
鎌倉の成就院の入り口付近に「星の井」という井戸がある。かつて、この井戸をのぞきこむと、昼間でも星の影が見えたことからこの名がついたと云われている。現実には昼間の星を観察するという天文台ツアーもあるように、望遠鏡を使えば1等星ならば昼間でも観察が出来るようである。「帚木」は、ほうきの材料に使われるように自ら天上に向かって樹形を整える木である。「帚木の浮かんで」という措辞に呼応し、「昼の星むすぶ」(昼の星が出現する)というシチュエーションは、主観的な見方かも知れないが壮大なロマンを感じる。
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「俳句スクエア集」2023年 6月号 好句選
五島高資
風鈴を吊す宇宙に手を入れて 石母田星人
早苗田に逆さ穂高の嶺白し 朝吹英和
姿見の中は転生の螢かな 松本龍子
玉苗のそよぐ棚田や水の空 加藤直克
夏星や弥勒の頬の仄明り 大津留直
リーフレタス包まれしもの皆美しき 和久井幹雄
溶けるなよ氷菓を抱いて走り行く 石川順一
修行僧の剃り跡青し麦の秋 眞矢ひろみ
新緑を統べるがごとき摩崖仏 児玉硝子
夏の雲何度もすべるすべり台 松尾紘子
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Copyright (C) Takatoshi Gotoh 1998.3.1