「俳句スクエア集」2023年 5月号鑑賞 Ⅰ

                   

                         加藤直克






剃立ての沙彌の消えゆく花の山     石母田星人


 沙彌(しゃみ、さみ)は仏門に入ったばかりの若い僧。「剃立ての」が出家に至った経緯や、修行への覚悟を匂わせている。そこに「花の山」が切れを生み、万感があふれくる。それは世俗の思いを断つことなのか、「柳は緑、花は紅」の悟りの世界が現成してることなのか、味わい深い句である。



芯固き製図鉛筆リラの冷え     朝吹英和


 「芯固き」で、精密な図の制作に向き合う人の几帳面さ、とっつきにくさが感じられる。それが「リラの冷え」と見事に呼応している。しかしそこから生み出される図形の見事さは、リラの美しさに通じているのであろう。



祭笛微熱少年ばかりゐる     松本龍子


 ものに憑かれたように祭笛を吹く少年たちを「微熱少年」と表現した。その造語表現にやや据わりの悪い感じもあるが、逆に切れの感覚も生じている。というのも「微熱少女」がいないせいかもしれない。しかしそこがリアルな面白さなのであろう。「神楽」とは「神を楽しませる」こと、つまり奉納とか奉献ということであるが、そのためには人間も日常の領域を超えていく「ものぐるい」、つまりエクスタシーの心境に導かれるのであろう。



爪のびて今日も伐らずに春惜しむ     服部一彦


 過ぎゆく春をおしとどめ、今しばらくはおだやかな日差しを楽しみたいという気持ち。そこにまた老境を楽しみつつ、しかも時の移りゆきを惜しむ気持ちを含めているのであろう。伸びた爪を切るのを一日延ばしにする感覚に共感を覚えた。



言語野をじはじは犯す藤の波     岩永靜代


 どう解釈していいか分からないが、魅力的な句。言語野が犯される感じとは、簡単に言えば言葉にならない、然るべき言葉が見つからないということなのだろう。藤の花は日々その房を伸ばし、色鮮やかになっていく。そのしずしずと寄せ来る感動を「藤の波」と表現したのかもしれない。まさに言語野を犯される実感から生まれ出た表現に脱帽。



花衣まとう雨上がりの地蔵     生田亜々子


 雨上がりに花びらがまとわりついて、花衣をまとっているようなお姿になったお地蔵さま。目にした光景をそのまま詠んだのであろうが、世の中の隅々にまで目を注がれるお地蔵さまの慈悲をそっと讃えている奥ゆかしさが感じられる。



麦秋や空のそこひは戦ぎけり     五島高資


 静かに風に揺れる麦秋の光景。その平和で静謐な景色を大空は無言で包んでいる。しかしその空をよくよく見つめるとその「そこひ」には麦の一本一本のそよぎが映っているということか。「そこひ」は深き淵の窮まるところという意味であろうが、仏教的な「空」の窮まりにあらわれる「大悲」、すなわち慈悲の心を思わずにいられない。そして「そよぎ」を「戦ぎ」と表現するとき、いささか解釈しすぎかと思うが、広大な穀倉地帯をかかえるウクライナを思い起こさせる。




******************************************************************************************************************************************************************************************************************************





  「俳句スクエア集」2023年 5月号鑑賞 Ⅱ

                   

                         和久井幹雄





剃立ての沙彌の消えゆく花の山      石母田星人


 沙彌とは二十歳未満の修行僧をいうが、剃立てとあるから新発意かも知れない。能『鞍馬天狗』には、鞍馬山の僧が弟子と稚児を桜見物に連れ歩く場面がある。上五の「剃立て」が利いており、果たして初学の僧は何処へ消えたのだろうかと色々連想させる。どこか中世の香りのする句である。



芯固き製図鉛筆リラの冷え        朝吹英和


 今の製図は手書きからCADの時代に代わってしまったが、以前は製図専用のシャープペンシルで作図していた。芯が細く折れにくいので固く感じるのは実感である。リラ冷えは北海道で使われ始めた季語であるが、東京にも咲いているので北海道に限定しなくてもよいであろう。剛直な製図鉛筆と薫り高いリラの花との取り合わせには意外性があり、新鮮なイメージが膨らんでくる。



薪能面のなかにも灯を入れて       松本龍子


 薪能といえば普通は周りの静寂や闇を詠んだ句が多いが、掲句は能面の中に焦点を当てている。実際の能面の視野は狭く、普通の舞台でも見付柱を目標に自分の位置を確かめながら演じている。作者は能面の細い眼の中に篝火が映り込んだ刹那を捉えており、演者の内面にまで踏み込んでいる。平明な表現の中に奥深いものを感じさせる一句である。



観覧車おぼろ夜掬ひまた掬ひ       平林佳子


 一読して、朝吹英和の《ゆるゆると晩夏巻き取る観覧車》を想い出した。一方は「晩夏」、掲句は「おぼろ夜」というアトモスフィア的なものをモチーフにしている。一見、同工異曲のような句に思えるが、「おぼろ夜掬ひ」という微かな心象は、「晩夏巻き取る」という勁さの対照にあり、「おぼろ夜」に対する表現の確かさを感じる。


 

麦秋や空のそこひは戦ぎけり       五島高資


 栃木県の小山市や佐野市辺りに6月頃に行くとビール用の黄金色をした麦畑が延々と続いており、如何にも麦秋の季語を実感する。特に風に吹かれて波を打っている麦秋の姿は風の存在を眼の当たりにしてくれる。「空のそこひ」が麦秋の穂の戦ぎにあるというのは納得するものがある。








******************************************************************************************************************************************************************************************************************************

 


  「俳句スクエア集」2023年  5月号 好句選

                   

                         五島高資




金星と月のころがる燕の巣         石母田星人



桜貝星の欠片と思ひけり          朝吹英和



花水木すくはれてゐる地球かな       松本龍子



見えない川見えて桜になつてゐる      和久井幹雄



言語野をじはじは犯す藤の波        岩永靜代



リズムよき微分積分春休み         児玉硝子



天目にくちびる触れて新茶かな       加藤直克

 

  




******************************************************************************************************************************************************************************************************************************

 


 


  


               「俳句スクエア」トップページ


             Copyright (C) Takatoshi Gotoh 1998.3.1