「俳句スクエア集」2022年 6・7月号鑑賞 Ⅰ
朝吹英和
空海が来る麦秋の真ん中を 石母田星人
麦が実って収穫期を迎える初夏の太陽の輝きの中を洞窟での修行の最中に悟りを開いたとされる空海がやって来るという気宇壮大な存在感のある一句。下五の「真ん中を」が奏功している。
夕焼けにある縄文の記憶かな 松本 龍子
夕焼けに染まった空を見上げていると暫し我を忘れてしまう。落日を眺めながら来し方を振り返る時遥か彼方のおおらかな縄文人の精神風土が想起された。
朝涼の素振り肩甲骨ひらく 児玉 硝子
夏の朝一番に稽古に励む。素振りとは剣道なのか、ゴルフやテニスかも知れぬ。肩甲骨が開く事によって肩凝りや腰痛の原因とされる肩甲骨の歪みが是正され気持ちの良い一日が始まる。
龍神の昇れる影や梅雨夕焼 大津留 直
龍神には九頭龍大神、八大龍王や青龍、金龍などさまざまである。神奈川県の箱根神社に参拝した折、九頭龍大神の伝説を知った。龍神の昇天する黒い影が茜色の梅雨夕焼の空に映発する。
砲身のなき砲台や青あらし 和久井幹雄
爆撃で消滅したのであろうか最早砲身が無く砲台だけが遺されている。折しも吹き渡る青嵐の響きが遠く過ぎ去った戦争への思いを増幅させる。
泣き顔は認証できず夕焼雲 五島 高資
泣いても笑っても普段とは違った顔つきでは顔認証システムに撥ねられてしまう。泣き腫らした顔を元通りにしようと心を落ち着かせるひと時を包む夕焼雲に詩情がある。
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「俳句スクエア集」2022年 6・7月号鑑賞 Ⅱ
松本龍子
矢車の音掠めてゆく夜汽車 石母田星人
一読、「発想の意外性」を感じる。<夜汽車>は夜間、日付をまたいで運転される列車のこと。<矢車の音を掠めてゆく>とは何か。鯉幟や幟の竿の頂点に取り付けた、金属製の風車が音を立てながら、<夜汽車>がスレスレに通り過ぎるという句意だろうか。<夜汽車>の車輪と<矢車>の矢羽の車との「形のアナロジー」。同時に<夜汽車>の車輪音と<矢車>の音が「韻律感」と重層化することで、新しい「カオス」が生じている。
修験者の血走る眼梅雨荒るる 朝吹英和
一読、「句材の意外性」を感じる。<梅雨荒るる>は北の寒冷高気圧と南の温暖高気圧との境目に発生する前線が停滞して生じる東アジア特有の雨季の末期に荒れ模様になる状況。<修験者の血走る眼>とは何か。神仏両者に仕え,山岳にこもって密教的呪法の修験道者の眼球が充血しているという句意。<血走る眼>と<梅雨荒るる>が照応しているために、山伏の足音と雨音が重層化することで、山伏の身体から湯気が立ち昇るのが見えてくる。
若葉して端から埋まる会議室 児玉硝子
一読、「モチーフの新鮮さ」を感じる。<若葉して>は落葉樹の初々しい新葉のこと。その新葉から洩れくる日ざし、若葉が風にそよぐ頃。<端から埋まる会議室>とは何か。会議室でも教室でも前列や真ん中に座る人は、熱心な人か座を取り仕切る方が多い。だからこそ、初参加の会議であれば無難に<端から埋まる>のであろう。その戸惑う初々しさが<若葉して>に見事に照応している。空間に作者の内面に漂う「震える時間」が沁み出している。
蜘蛛の囲を突つきつづけて登校す 松尾紘子
一読、「ある種の衝動」を感じる。<蜘蛛の囲>は蜘蛛が糸を分泌して粘着力のある網を張り、網にかかった昆虫などを捕食するための巧緻な巣のこと。<突つきつづけて登校す>とは何か。蜘蛛の巣を見つけては棒や傘で突き破って登校したという句意だろうか。それは蝶の標本に熱中する幼年期独特のリビドー的な「支配欲」「残虐性」と同じものを感じる。おそらく、それは人が幼年期に潜り抜けなければならぬ試練なのだろう。
ゆがみたる大統領やしゃぼん玉 五島高資
一読、「深い哀しみ」を感じる。<しゃぼん玉>は石鹸水をストローの先につけ、軽く息を吹き込んで泡を膨らませる、春らしいのどかな遊び。<ゆがみたる大統領>とは何か。ウクライナ紛争は「自由主義」と「権威主義」の二極分化の代理戦争。<しゃぼん玉>に映るのは「力こそ正義」という見果てぬ夢を見るプーチンと「軍事産業」の影がちらつくバイデンとゼレンスキーの貌が歪みながら浮かんでは消えるという句意だろうか。「日常」と「非日常」の共存を象徴する<しゃぼん玉>には、「戦争の論理」と逃げ惑う子供の「生のはかなさ」が見えてくる。
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「俳句スクエア集」2022年 6・7月号鑑賞 Ⅲ
五島高資
矢車の音を掠めてゆく夜汽車 石母田星人
鯉のぼりの竿の先に風を受けてくるくると回る矢車。その上に、駕籠玉という回転する球がある。よく考えると不思議な飾りだと思うが、駕籠玉は神様の目印になるという。矢車は武士の象徴で魔除けの意味もあるという。カラカラと鳴る響きは天に届いて神様を呼び寄せるのであろう。健やかな子供の成長を願ったものと思われる。もっとも、裏を返せば、江戸時代などでは子供の死亡率は高かったということが想起される。まさにその成長は神様のお蔭と考えられてもおかしくないのである。掲句の「夜汽車」は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思い出させて、宇宙的な詩境が広がる。生死を超える魂も駕籠玉と共鳴して高次元への上昇がもたらされるようだ。
雲の峰終末論など消え失せよ 朝吹英和
雲は、水滴や氷晶が上空に浮かんだものだが、それは絶えず凝固と液化あるいは気化と変化している。入道のように見える「雲の峰」もまた一瞬たりとも同じ形ではない。むしろ、そうした絶えざる位相の変化にこそ形象の本質があるのかもしれない。そう考えると、一部に信じられているこの世の「終末」というもの自体が馬鹿らしく思えてくる。「消え失せよ」と作者が言わざるを得ない所以でもある。
蛇口から溢れ出したる螢かな 松本龍子
昔はよく近くの沢に螢を捕りに行った。闇の中に明滅しながら漂う光はまさに幻想的である。一時期は、河川の汚染などに少なくなった螢だが、環境整備や過疎化なども相俟って再び見かけることも多くなった。蛇口から出る水も以前より美味しくなった。物理的に蛇口から螢が溢れ出ることはないが、清らかになった想念から希望の光は見えてくるものである。
朝涼の素振り肩甲骨ひらく 児玉硝子
朝は、一日で最も気温が低くなる頃でもある。暑い夏であればなおさらその涼しさは格別である。「素振り」とは、鍛錬のために竹刀やバットなどを振ることであるが、ここでは前者と捉えたい。もちろん、真剣でも木刀でも構わないが、中段の構えから大きく振り上げれば、おのずと肩甲骨が展開されて胸郭も広がる。涼しさもまた肺にしみわたる所以である。
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Copyright (C) Takatoshi Gotoh 1998.3.1