「俳句スクエア集」2022年 3月号鑑賞 Ⅰ
朝吹英和
正面に笑ひ羅漢のゐる余寒 石母田星人
埼玉県川越の喜多院に残る五百羅漢は日本三大羅漢に数えられている。喜怒哀楽それぞれの表情の羅漢群像の中でも笑顔の羅漢と正対した時には余寒の寒さも吹き飛んでしまうのであろう。余寒の中に感じられた仄かな暖か味が爽やかである。
松の木の残る陸奥あり鴨帰る 松本龍子
東日本大震災では大津波によって7万本もの松が薙ぎ倒された中で1本の松だけが倒れずに真っ直ぐに残った。「奇跡の一本松」として報道された松を背景に故郷の北を目指して帰る鴨を見送る作者の心には、震災の犠牲者や帰るべき故郷を喪失した被災者への思いがあった。
ガラス片路傍に光り戻り寒 松尾紘子
陽光を浴びて光る道端に落ちていたガラスの破片。日の光には春の到来が兆してはいるものの折からの寒の戻りに気持ちも引き締まる思いがする。ガラス片の反射光にフォーカスした掲句には硬質な抒情が実感される。
雪をんな顔認証のドアひらく 和久井幹雄
伝説や民話に登場する雪女は妖怪として怖れられている反面、その出自が雪の精であるところから幻想性を帯びた存在でもある。その雪女が顔認証のドアをパスしたという諧謔味を感じる現代的な一句。
夕暮れに血の浸む雪崩響きけり 五島高資
夕暮れ時の静寂の時空を切り裂くような雪崩の響き。雪崩に巻き込まれて落命する場合も多く掲句の「血の浸む」の措辞から雪崩による犠牲者が想起される。自然現象の雪崩には何かが墜ちてゆく崩落感が内在している。
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「俳句スクエア集」2022年 3月号鑑賞 Ⅱ
松本龍子
脱落のタイヤ転がる実朝忌 石母田星人
一読、「モチーフの意外性」を感じる。<実朝忌>は源実朝の忌日。将軍就任後、鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。<脱落のタイヤ転がる>とは何か。怒声の中、タイヤが抜け落ちるように、実朝の首が石段をゴトンゴトンと転がってくるという句意だろうか。転げ落ちた首の眼球には「くれなゐの ちしほのまふり 山の端に 日の入るときの 空にぞありける」の夕焼が映りこんでいるのだろう。
嬰の声遠ざかりゆく春ともし 服部一彦
一読、「感覚の新鮮さ」を感じる。<春ともし>とは春の夜をともす燈火のこと。 春の灯ともいう。 春の華やかさとともに艶めいた感じがある。<嬰の声遠ざかりゆく>とは何か。自分自身または、見ている対象の赤子が車か電車などで移動してゆくという句意だろうか。「過ぎゆく時間」の中で、作者はこの<嬰の声>に産まれ落ちた「はかなさ」、別れの「いとおしさ」を感じているということなのだろう。季語<春ともし>に作者の「心情」が沁み出している。
冬の灯や娘の旧巣見て走る 十河智
一読、「感覚の新鮮さ」を感じる。<冬の灯>とは冬の夕暮と共にともされる灯のこと。<娘の旧巣見て走る>とは何か。言葉のままに解釈をすれば、作者の娘さんが以前、暮らしていた家を見ながら車で通りすぎたという句意。日暮の早い町にともる灯の中に、作者は娘の不在の町の「はかなさ」、一緒に笑い合った時間の「いとおしさ」、そして移転先での幸せな「未来」を祈っているのだろう。
雪をんな顔認証のドアひらく 和久井幹雄
一読、「発想の意外性」を感じる。<雪をんな>は雪国の伝説にある雪女、雪の精のこと。<顔認証のドアひらく>とは何か。現在、玄関ドアはリモコン型の鍵を利用して開錠・施錠しているが、最新の顔認証の解除によりカギを持ち歩く必要もなくなったドアのこと。この時期はどうしても東日本大震災の「遺体なき死」を連想するのだが、迫りくる闇、吹雪の夜の風の音などの自然現象と共に死者が「夢幻能」のように、ドアを開けて現れたという句意だろうか。「底なしの不安の憑在論」とでもいえる秀句である。
額を手で支える春の夕焼けかな 五島高資
一読、「うつろう時間」を感じる。<額を手で支える>とは何か。顔面の上部の、毛髪の生えぎわから眉のあたりまでを手で支えているということ。<春の夕焼けかな>は、暮れ遅い夕暮れ時の光は大気中の水蒸気の量により、春特有の「おだやかな」情緒を感じさせる。作者はこの夕焼けを見た瞬間に放心状態になり、故郷の「海の香り」と「はかない風」を感じているのだろう。
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Copyright (C) Takatoshi Gotoh 1998.3.1