「俳句スクエア集」2022年 1月号鑑賞 Ⅰ

                   

                         朝吹英和





喧嘩独楽我が身を渦と思ひけり         松本龍子



 独楽遊びに興じた幼年時代を懐かしく思い出した。喧嘩独楽は「博多独楽」とか「佐世保独楽」、「諫早独楽」等と呼ばれるように九州地方で広く遊ばれた独楽と聞く。鉄の芯を打ち込んだ独楽を相手の独楽にぶつけ合ってより長く回す事を競ったり相手の独楽を壊したりもするらしい。掲句では回転する独楽を眺めての心象風景であり、大人の感覚である。





来し方のあとかたも無き初御空         加藤直克



 元日の夜明け、初日の出を拝む気分は格別のものがある。過ぎ去って決して戻らない時間の流れの中で迎える新しい年。全てをデリートして清新な気分で新しい年を迎える心構えと初御空の澄明な空気感とがマッチしている。





甕棺の封じ目堅し山眠る            和久井幹雄



 甕棺は埋葬に用いた土器の棺で古代エジプトやメソポタミア、中国、そして我が国でも縄文時代から存在していたと言う。永遠の眠りについた遺骸を納めた甕棺と鎮もった冬の山との対比には作者の輪廻転生への思いが感知される。




湯に変はる水のゆらぎや憂国忌         五島高資



 水を加熱して湯に変化する過程での水の揺らぎには可視化されたエネルギーの存在が感じられる。純粋無垢な水が沸騰して湯に変化する過程から一途な思いで自らの美意識を貫き通した三島由紀夫の強靭なエネルギーを感じ取る事が出来る。








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  「俳句スクエア集」2022年 1月号鑑賞 Ⅱ

                   

                         松本龍子




天辺は宇宙の在処大根引く    石母田星人



 一読、「発想の意外性」を感じる。<大根引く>は大根を収穫すること。<天辺は宇宙の在処>とは何か。頂上は宇宙の居所という句意だろうか。「ビッグバン」モデルでは宇宙は百五十億年前に「一粒の光」から生まれた。宇宙を膨らんだ「風船」に例えるとより遠くにある星ほど、より速く遠ざかっているように見える。この宇宙は目に見えない透明の水の中に、突然生じた泡のように「ぽっ」と生まれたらしい。人間も<大根>も同じ太陽系・地球に生まれ出て、「ぽっ」と瞬間の生という輝きを放って、やがて銀河系に還っていく仲間だと作者は考えているのだろう。






大年をよそ目に猫の薄目かな   朝吹英和


 

 一読、「発想の意外性」を感じる。<大年をよそ目に>とは何か。大晦日の除夜から元旦への一年の境目を脇見しながら、という句意。<猫の薄目かな>は言葉のとおり、ほとんど眼球が見えないぐらいの薄目であるということだろう。季語の<大年>と<猫の薄目>の「アナロジーの発見」がこの句の眼目といえる。中七の<よそ目に>は「猫の動態」の鋭い観察で普段あまり意識しない「意外な発見」をしていて、非常に効果的だ。





来し方のあとかたも無き初御空  加藤直克



 一読、「地球の循環」を感じる。<初御空>は元旦の大空こと。<来し方のあとかたも無き>とは、過去に何かがそこにあった痕跡がないという句意。掲句の眼目は<来し方>が<初御空>と取り合わされ、中七の触媒によって<初御空>が、地球の自転が生じる「循環の相」をイメージさせる所にある。人間には生きている「価値を決める時間」と「時計時間」との違いと同時に、「循環・回帰」という宿命が内在しているということだろう。







見え透いた嘘聞き流す河豚と汁  松尾紘子



 一読、「発想の意外性」を感じる。<河豚と汁>は河豚の身を入れた味噌汁。葱や豆腐と一緒に煮るが内臓に毒を持つ種類もあり、中毒死をおこすこともある。<見え透いた嘘聞き流す>とは何か。食卓で何やら「苦しい言い訳」をしている家族が浮き上がる。取り合わされた<河豚と汁>から推測すれば旦那様だろうか。俳句は単に短い詩ではなく、「俳」。芭蕉も蕪村も一茶も「おかしみ」を追求する「大衆の詩」を忘れなかった。現代俳句は『日本書紀』の「戯笑性」の遺伝を受け継いだ「俳諧性」をもう一度吟味することが必要なのだろう。





湯に変はる水のゆらぎや憂国忌  五島高資



 一読、「救いなき自己愛」を感じる。<憂国忌>は十一月二十五日、短編小説の『憂国』にちなむ三島由紀夫の忌日。<湯に変はる水のゆらぎや>とは何か。基本的な文体の型だが、温度が上がるにつれて少しずつ浮き上がる「泡」と「水の揺らぎ」は<憂国忌>のようだという句意。無意識を否定して、すべて自我で統御出来ると考えた三島は、「何のために生きてゐるかわからないから、生きてゐられるんだわ」と小説の中で喝破した。「生の否定」がもたらす「水のゆらぎ」は<憂国忌>を象徴しているということだろう。




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  「俳句スクエア集」2022年 1月号鑑賞 Ⅲ

                   

                         五島高資





鍋焼の蓋より軽き余命かな         菊池宇鷹



 作者が筋ジストロフィーという難病にあることを思うと、鍋焼の蓋でさえも重く感じられることだろう。ここで「軽き」としたのは、普通の人の感覚ではということだろう。しかし、普通の人はそれが軽いなどとは思わない。作者の余命についても深く察することがない。病を得た者しか発見できない「軽さ」なのである。しかし、余命という時間が単なる流れゆくものではなく、そこに生きる価値を見出したとき「軽さ」は「重さ」へと詩的昇華される。





銀杏落葉地上の明るさと思う        児玉硝子



 一面に散り敷かれた黄色い銀杏の葉によって地上は明るく映える。ただそれだけでなく、葉を失った枝からは、その分、日の光が地上に降り注いで余計に明るくなる。やがて、その光によって地表の草木が育まれることになる。春の光へと繋がる明るさなのだと思う。





片時も眠らぬ海や山眠る          朝吹英和



たしかに「山眠る」とは言うが、「海眠る」とは言わない。もちろん、蕪村の<春の海ひねもすのたりのたりかな>を思えば眠気を誘うが、山が眠るのは冬である。冬の海は、日本海に限らず太平洋でも荒々しい。森閑とした冬の山は時が止まったような趣があるが、絶え間なき冬怒濤には地球の生動がいっそう際立つ。








 


  


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