「俳句スクエア集」2021年 11月号鑑賞 Ⅰ
朝吹英和
火祭の虚空を進む舳先かな 石母田星人
勇壮な鞍馬の火祭は大小の松明を掲げた若者達が練り歩き、神輿の渡御では山門の前に集結してクライマックスを迎えるという。篝火や松明に照らされた虚空を船が進んでゆくという幻想的かつ古代のロマンを感じる時空、読み手には舳先の先にあるものを想像する楽しみがある。
水澄むやリモート授業の歪む音 生田亜々子
コロナ禍でオンラインを利用したリモートの授業を余儀なくされ、直接顔を合わせての交流が閉ざされた若者たちのストレスが溜まっていると聞く。水の澄む爽やかな秋の到来とは対照的な時空が「歪む音」に籠められている。
紺青の落ち葉月夜のにほひして 干野風来子
紺青とは月光に照らされた落ち葉の様子であろう。明るく輝く月夜にひとは様々な思いを抱く。掲句では視覚と繊細な嗅覚の相乗効果が奏功し、「にほひして」の抑えが読み手の想像力を掻き立てる。
クレヨンの白の残りし素十の忌 和久井幹雄
12色とか16色、中には48色のセットもあるクレヨンだが、白は案外使われずに残ったりする。虚子に師事した高野素十は突き詰めた客観写生を作句のモットーに即物的な作句スタイルの中に事物の本質を衝いた句が多い。クレヨンの白に焦点を絞った掲句は純粋性を志向した素十を偲ぶ忌日に相応しい。
蓮の実の飛んでうつつに佇める 五島高資
蓮の花が終わると熟した実が蜂の巣状の穴から飛び出る。実際には空中を飛ぶよりも水中等に落ちるようであるが、飛び出すが如き「蓮の実」のエネルギーに対して何か思い悩む事でもあるのか現実の中で佇む我との対比。「佇む」にはじっと動かずに立っているとの意味から飛躍して物事を深く考えたり、思考停止した意味合いも含まれるのではないか。
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「俳句スクエア集」2021年 11月号鑑賞 Ⅱ
松本龍子
竹の春金星へ行く古道かな 石母田星人
一読、「発想の意外性」を感じる。<竹の春>とは秋に竹が青々と枝葉を茂らせること。<金星へ行く古道かな>とは何か。竹を下から見上げる視線からは、まるで<金星>まで届くような<古道>に見えたという句意。掲句には「時間」を示す表現はないが、<金星>という言葉から夜明け前からうっすらと空が白んでくる時間帯に、<金星>がひときわ明るく輝く時間だろうか。枝葉に朝日が差し込み、薄暗い鬱蒼とした<古道>を照らしているように幻想したということだろう。
秋の蝶おのがひとりを花として 加藤直克
一読、「残り火」を感じる。<秋の蝶>は秋に見かける力なく弱々しい蝶。<おのがひとりの花として>とは何か。我が身ひとりを花のようにして、舞っているという句意。散歩をしていると突然目の前に、黄色い蝶が上下に舞う光景に出くわすことがある。季節外れの「蝶の舞」はまるで「枯れ葉」が落ちるように、切なく空気を打つ。「花の色」「翅音」が何故かいつまでも作者には忘れられないのだろう。
おもむろに世を剥がれゆく新走 児玉硝子
一読、「発想の意外性」を感じる。<新走>は新米で醸造した酒のこと。<おもむろに世を剥がれゆく>とは何か。ゆっくりとこの一瞬を部分的に取れてゆくという句意。おそらくこれは、醸造期間の米から酒に変化する「熟成期間」を表現しているのではなく、<新走>を飲んだ作者の「こころの動き」なのではなかろうか。コロナ禍の現状であれば、束の間の忘憂であったとしても<新酒>で「不安や憂さ」を一瞬忘れることが出来るのだろう。
クレヨンの白の残りし素十の忌 和久井幹雄
一読、「モチーフの意外性」を感じる。<素十の忌>は十月四日、俳人高野素十の忌日。<クレヨンの白の残りし>とは何か。素十は、「数詞」を多用してその背後の「環境」「世界」を対比的に暗示させた。光を表現する絵画において<白>は重要な色で、キャンバスの背景の下塗り、またはコントラストの一塗りに使用する。その<白>がクレヨンケースに「一本」残されているという句意だろうか。色数の多さはデッサンの未熟さからくるので、<クレヨンの白>のみ残るということは「影の部分」に他の色を多用しているか、深読みすれば「余白」を象徴的に託したのかもしれない。「省略」「対比」という技法を駆使し、俳誌は一代限りと考えていた<素十の忌>に同化した取り合せといえるのではないか。
蓮の実の飛んでうつつに佇める 五島高資
一読、「うつろう時間」を感じる。言葉のままに解釈すれば、<蓮の実>が飛んで、夢心地でそのあたりにしばらくとどまっているという句意。中七の<飛んでうつつに>と「浮遊感」を持たせることで「スローモーション」のような効果をあげている。読者はこの言葉から「異次元の時空」に移動したような錯覚を覚える。仏教には死後に極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって身を託すという思想があり、「一蓮托生」という言葉がある。<佇める>と誇張することで、作者自身も呆然と「空白の時空」を体験しているのだろう。
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「俳句スクエア集」2021年 11月号鑑賞 Ⅲ
五島高資
竹の春金星へ行く古道かな 石母田星人
春に芽吹いた筍は、秋になると青々とした枝葉をつけた立派な竹となる。親竹ともにその清らかな竹林を形成する。夏における筍の成長の速さには驚くばかりであり、その生命力はまさに「青天を衝」くがごとしである。明けの明星にも届かんばかりの勢いさえ感じられる。もっとも、こうした竹林の生態は太古より続いてきたものであり、今に始まったことではない。竹林を貫く「古道」に思いを致すとき、「不易流行」という蕉風俳諧の理念とともに、それが宇宙の摂理であることが「金星」によって示唆され、見事に詩的昇華されている。
紺青の落ち葉月夜のにほひして 干野風来子
たいてい落ち葉と言えば、黄色や茶色であるが、それは、あくまで日中のことである。夜ともなれば、命が尽きた落ち葉に月の光が注ぐ。もちろん、落ち葉は、やがて朽ちて土壌の養分となって、様々な生き物の糧となる。それは生命を繋ぐ大いなる循環の一コマに過ぎない。夜半の月影によって、照らされる落ち葉が青く見えることは想像に難くないが、「月夜のにほひ」として捉えたところに掲句の眼目がある。前述した造化の妙が体感として心に迫ってくる。
我に返る木犀の香やうつせみの 眞島裕樹
十月になると決まって、どこからともなく木犀の独特な良い香りがしてくる。忙しく日々を生活していると忘れがちな季節の移ろいにあって、その香りは正確に季節の変化を教えてくれる。その時、私たちもまた天然造化の大いなる循環のなかに生かされていることに気づく。「うつせみ」という現世で忘れがちな真の主体を取り戻すのである。
Copyright (C) Takatoshi Gotoh 1998.3.1