「俳句スクエア集」2021年 10月号鑑賞 Ⅰ

                   

                         朝吹英和




銀漢や軍艦の骨立ちあがる         石母田星人



 秋の澄み渡った夜空に輝く銀河には悠久の時空への想いを喚起する力がある。沈没した軍艦の竜骨が軋みながら立ち上がって来る光景が幻視された。戦争に斃れた死者の無念の想いが伝わって来るようである。





火祭に毘沙門天は蝶と化す         松本龍子



 毘沙門信仰は平安時代に京都の鞍馬寺が発祥の地とされている。鞍馬の火祭では大小の松明が鞍馬寺山門前に集結して燃え盛る中を神輿が渡御する。荘厳な雰囲気の中で毘沙門天が蝶となって舞うという幻想的な時空への転位が見事な一句。





十二神将の陣立て暗き残暑かな       和久井幹雄



 残暑の中を拝観した薬師如来の周囲には守護神としての十二神将が佇立している。仄暗く、ひんやりした堂宇に入った途端に実感した屋外の熱気と堂内の鎮もる空気との落差に十二神将が我が身をも守ってくれたように感じたのであろうか。





叱られて風船葛の中にゐる         平林佳子



 フウセンカズラは風船状の果実をつける所からのネーミングである。叱られて居場所を失った挙句に隠れる場所としては案外適しているのであろう。黒地にベージュのハート形をしている可愛らしいフウセンカズラの種に傷ついた心は癒されるのかも知れぬ。





葡萄食ぶ人生節目節目あり         小沢コウジ



一粒一粒味わって食べる葡萄。我が人生の来し方を振り返りつつ様々な思い出が鮮明に蘇る。人生には「節目節目あり」と断定した所に一句の勢いと作者の矜恃を感じる。





かなかなや魂のずれととのへる       五島高資



 夕暮れ時に鳴く「かなかな」に耳を傾けて物思いに耽るひととき。哀感の籠った鳴き声はその日の出来事を省みたり、過去の思い出に纏わる気持ちを鎮める効果がある。「魂のずれ」を整える気持ちに沿った季語の選択に得心する。






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  「俳句スクエア集」2021年 10月号鑑賞 Ⅱ

                   

                         松本龍子




銀漢や軍艦の骨立ちあがる     石母田星人



 一読、重層的な「朦朧性」を感じる。季語<銀漢>は秋の夜空を彩る大河のような星の集まり。<軍艦の骨立ちあがる>は海底深く沈んだ軍艦の鉄骨が<銀漢>の瞬きに吸い寄せられるように海面を目指して浮き上がるという句意。戦後76年、時が流れると「戦争」という負の歴史は見えなくなる。人間は豊かで便利な文明を築いたが、他の生物がしない同類の大量虐殺、「戦争」をしてきた。遠い<銀漢>を見つめながら、歴史の海底に沈む「人間の二面性」に思いを馳せなければいけないのだろう。





今生はこの調べのみちちろ虫     加藤直克



 一読、時間の「永遠の反復」を感じる。<ちちろ虫>は体が黒褐色で、長い羽を擦り合わせて鳴く。<今生はこの調べのみ>とは何か。この世に生きている間は単調な旋律が続くという句意だろうか。山には山の精が、野には野の精が居る自然世界では、生きとし生けるものが照応し交感している。作者は人間も<ちちろ虫>と入り混じった一つの「存在」、自分の「似姿」と捉えているのだろう。





叱られて風船葛の中にゐる     平林佳子



 一読、発想の「意外性」を感じる。<葛の中にゐる>はマメ科の多年草で山野を覆っている長い蔓の中に居るということ。<叱られて風船>とは何か。<風船>を擬人化したというより、<風船>はおそらく作者の子供時代の象徴なのではないか。親に叱られて、自室に閉じ籠って膝を抱えて<風船>のように頬を膨らませていた回想シーンかもしれない。






生きてゆかなければ桃を滴らせ     生田亜々子



 一読、「幸せの分泌」を感じる。<生きてゆかなければ>は言葉のままに解釈すれば、コロナ禍の中、不安はいくら気休めを言われても根源から解消されないとなくならないが、作者は「生き残ってやる」という意志が表われているようだ。<桃を滴らせ>とは何か。銀色の産毛に覆われた<桃>はおそらく「幸せ」か「脳内物質」を象徴しているのだろう。心と体を「平常心」に保ち、「小さな幸福」を積み重ねていこうとしているのだろう。





かなかなや魂のずれととのへる     五島高資



 一読、「深い静けさ」を感じる。現代日本人は高速化するインフラとペースの早いライフスタイルとノルマに追われて疲弊している。その中で追い打ちをかけるようなコロナ禍により一層「情緒不安定」になり、「意識と無意識」の結合がうまく出来なくなっている。そんな中で作者は夕方に<かなかな>の声に耳を傾けることで、「心の自然」を取り戻し、曇りのない「明澄な状態」で一日を終えるのだろう。




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  「俳句スクエア集」2021年 10月号鑑賞 Ⅲ

                   

                         五島高資




かなぶんや電気の球の切れ掛かる      和久井幹雄



 かなぶんは、コガネムシ科の甲虫で、夏、屋内の電灯などをめがけて外から飛んできたりする。その形態は、金色、青銅色など光沢が鮮やかである。一種、電気仕掛けの小型ロボットのようでもあるが、もちろん、寿命がある。一方、電球の方も寿命がある。つまり、お互いにいずれは事切れる時が待っている。生物と無生物の違いはあってもそこに「生命」の儚さが光を介すして共鳴する。「電気の球」という表現が少し違和感もあるが、こういう言い方もある。





浮き上がるバサロキックや鰯雲       菊池宇鷹



 バサロキックとは、背泳ぎのスタートの際、潜水しながら仰向けで両手を前に伸ばし、足はドルフィンキックを裏返しにしたキックをする泳法。やがて、浮上して背泳ぎへと移行する。プールではなくても、仰向けに寝て両手を伸ばした姿勢になれれば真似することはできる。そのとき鰯雲は水の波紋に模せられるだろう。いずれにしても、水中、あるいは地上から大空へと上昇する志向性がこの句の詩性を昇華させている。





山風に背中押さるる稲田かな        眞島裕樹


 山からの風にそよぐ稲穂が目に浮かぶ。実り多き稲穂を祝福するような風である。そもそも、その稲を育てたのは山からの水の恵みであることを思えば、人々は山の神に畏敬を感じずにはいられない。人も稲もそうした自然の力によってその生命が育まれているのである。


 


  


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