「俳句スクエア集」2021年 9月号鑑賞 Ⅰ
朝吹英和
稲光犀のかたちの真闇かな 石母田星人
闇夜に閃光の如く走る稲光に照らされて眼前に浮かんだ犀の形とは何か。一瞬作者の眼に映ったものは犀の形をした闇なのか、或いは雲かも知れぬ。物語の始まりを犀が誘起している。作者にとって「犀」は様々なものを喚起するようである。「疾走の犀は秋風なりしかな」星人
抽斗に忘れ物あり終戦日 服部一彦
毎年巡って来る終戦日に人は様々な感懐を抱く。「抽斗にあった忘れ物」とは何を象徴しているのであろうか。私には抽斗の奥に仕舞われている戦前を生き抜いた両親の形見の品が想起された。「終戦日」には遠き日にタイム・スリップする力が内在している。
涼しさよあらゆるネジが揃う店 児玉硝子
ボルトやナット等多品種のネジを豊富に取り揃えている店から様々な事が想起される。古代ギリシャに遡るとされるネジの起源から、部材の締め付けには欠かせないネジへの想いまで。暑い夏も過ぎて涼気の感じられる季節ならではの物思いに耽る時空が季語に託されている。
鹿鳴くやどれも大きめ宿の下駄 松尾紘子
大は小を兼ねるのであろうか、宿に常備された下駄は大きめのものが多いようである。草津や野沢等温泉地の外湯巡りに出掛ける宿の玄関先での一景が目に浮かんだ。「鹿鳴くや」の打ち出しも非日常の旅先を象徴しており効果的である。
槐散る公文書館しづかなり 和久井幹雄
槐は昔の中国では尊貴の樹木として尊重されており、学問や権威のシンボルでもあった。作者は公文書館に調べ物のため赴いたのか、或いは通りすがりだったのかも知れないが、公文書を歴史的な資料として保存する公文書館の静謐な時空には槐が相応しいのであろう。
火焔とは波濤と思ふ土器の秋 五島高資
火焔土器の上部にある大きな把手は、燃え盛る火焔の象徴のように思え、縄文時代の活力の象徴のように思える。旧石器時代からテイク・オフして縄文時代には様々な文化が生まれた。波濤のエネルギーは縄文人のエネルギーへの想いと共鳴するようである。
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「俳句スクエア集」2021年 9月号鑑賞 Ⅱ
松本龍子
稲光犀のかたちの真闇かな 石母田星人
一読、「メメント・モリ」を感じる。<稲光>は空中で電気が放電して発する光。<犀のかたちの>とは何か。犀は群れではなく単独で行動することが多く、犀の角は「孤独」に例えられる。<真闇かな>は「孤独」の形をした深い闇とはどんな闇だろうか。つまり作者は<稲光>に映し出された闇の中に、自分の中にある「底知れぬ孤独」を見たということだろうか。「生の本質」を見てしまった驚きが沁み出している。
涼しさよあらゆるネジが揃う店 児玉硝子
一読、新鮮な「感覚」を感じる。<涼しさよ>とは夏の暑さの中で感じる涼しさ。<あらゆるネジが揃う店>とは何か。おそらく、機械製造メーカーや工具、DIY用品のネジ・ボトルが店頭に並んでいる専門店なのだろう。季語とアナロジーの発見を取り合せることで、読者の「視覚と触覚の共感覚」に巧みに訴求している。「身体性」によるひんやりした実感を伴った表現といえるだろう。
空蝉のまだ濡れてゐる夢の色 平林佳子
一読、「モチーフ」の意外性を感じる。<空蝉のまだ濡れてゐる>とは何か。おそらく羽化をしたばかりの空蝉の背中が割れ、まだ夜露と蝉の体液で濡れているのであろう。<夢の色>とは映画の上映前のような白く幻想的な異次元の世界。どちらも意識がその中に没入して、手に汗握る感覚が似ている。幻想に遊んだ目覚めた後の中が虚ろになった「現実感」が浮き彫りになって、妙に新鮮だ。
ひととせの起点となりし晩夏かな 和久井幹雄
一読、「分水嶺」を感じる。<ひととせの起点となりし>とは何か。以前のある年・一か年の一連の動作・作用がそこから起こるものと考えられる点という句意。<晩夏>は夏の末、夏の勢いが衰えを見せ始めた頃。青春時代の晩夏という解釈も可能だが、コロナ禍の現状では緊急事態宣言によって感染者数の激減に、「一筋の光」が見えてきたという句意だろうか。「不安」はいくら気休めを言われても根源から解消されないと無くならないが、良い方向への「瀬戸際」ともいえるだろう。
遡る水は血となり鶏頭花 五島高資
一読、「直観的把握」を感じる。<鶏頭花>は茎の先端に鶏冠状の深紅の奇形花をつける。<遡る水は血となり>とは何か。水遣りをしたとたんに、その水があたかも血のように花に遡って、真っ赤な<鶏頭花>になってしまったという句意。<鶏頭花>を見た瞬間に、突然襲われるように作者の潜在意識に「浮立」が波立ち、「血の炎」のように揺らめいて見えたということなのだろう。
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「俳句スクエア集」2021年 9月号鑑賞 Ⅲ
五島高資
光背の裏にまはるや天の川 石母田星人
光背とは、仏像の背後を飾るものであるが、それは仏から沸き起こる慈悲の発露とも考えられる。宇宙の中心にして遍在する大日如来の後光を想起すれは、その光は光背の裏にも満ち満ちていることになる。天の川の光をそれと見た作者の感性の素晴らしさを思う。
四次元の入口探す夜長かな 朝吹英和
夏の夜は、空間的な闇の深さが取り沙汰されることが多い。例えば、高浜虚子の<金亀子 擲つ闇の深さかな>などにそれを見る。秋の夜となると、時間的な要素が大きくなる。例えば、柿本人麻呂の<あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む>といった具合である。掲句における四次元を時間とすれば、その「 入口」という空間的な切り口が面白い。空間と時間を超克した次元がそこに立ち現れる。
野を浸すひぐらしといふ潮かな 加藤直克
「野」というのは、単なる平原ではなく、山と原の中間概念である。つまり、そこには多少の高低差がある。蜩の声はまさに寄せては返す波のように響き渡る。野にいる作者の足もとに寄せるその鳴き声はまさに「潮」のように感じられたのであろう。その音感もどことなく濡れているような気もする。しかも、夜も更けと早朝に際立つ蜩の鳴き声を思えば、潮汐という大自然の営みとも共鳴する。
Copyright (C) Takatoshi Gotoh 1998.3.1