「俳句スクエア集」2021年 6月号鑑賞 Ⅰ
朝吹英和
水を追ふデッキブラシに夏来る 石母田星人
潮風を受けて船の甲板でデッキブラシを使用しての清掃作業の様子が目に浮かんだ。広い甲板の隅から隅までを洗う事は大変な労力を必要とするが、「水を追ふ」の措辞で光景が描写され「夏来る」の抑えによって初夏の海の爽やかな気分が醸成される。
木耳を切り落としてる明恵かな 松本龍子
華厳密教の修行僧として名高い明恵上人は京都高山寺開山の祖であるが、若い頃に求道の思いから右耳を切り落としたと聞く。松林の中で座禅する明恵の姿を描いた絵に象徴される如く自然との共生を志した心の優しさが印象的。耳の形を連想させる木耳との取り合わせに得心する。
乱鶯の早朝ぶつかり稽古かな 加藤直克
繁殖期を迎えたのであろうか、早朝から其処此処で鳴き乱れる鶯の様子を相撲の「ぶつかり稽古」に譬えた表現はユニーク。鳥の囀りで目覚めるのは一日が明るくなるようで気持ちが良い。
胸つんと尖らせてゆく白きシヤツ 平林佳子
西東三鬼の名作「おそるべき君等の乳房夏来る」が想起された。初夏の陽光を浴びて颯爽と歩いて行く白いシャツ姿の若い女性。「胸つんと」の打ち出しが奏功、健康美溢れる一句である。
蝋石の線路果てなき遅日かな 和久井幹雄
コンクリートの地面に蝋石で線路を描いて「電車ごっこ」で遊んだり、円を沢山描いて遊んだ「ケンケンパ」は遥か遠き日の思い出となってしまった。昭和30年代前半頃の生活風景を描いた映画「三丁目の夕日」に登場するような昭和レトロの風景。「果てなき遅日かな」の措辞は「時間がゆっくり流れていた昭和」を詠嘆し、象徴している。
陶枕やゆつくり沈む難破船 五島高資
夏の暑い時期には藤枕や籠枕等で微睡む昼寝が気持ち良いもの。肌触りのひんやりした陶枕での夢見のワンシーンであろうか、中七下五の措辞には太古の時代へタイムスリップするようなロマンが感じられる。
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「俳句スクエア集」2021年 6月号鑑賞 Ⅱ
松本龍子
水を追ふデッキブラシに夏来る 石母田星人
一読、「詩情」を感じる。<水を追ふデッキブラシに>とは何か。言葉通りに解釈すれば、ホースから水を撒いた後にデッキブラシでその水を追っているという句意だろうか。<夏来る>とは二十四節気の一つで、陽暦五月六日頃。設定は自宅のベランダなどがイメージされるが、個人的には弓削商船学校の船上での課外授業を思い浮かべる。デッキブラシから溢れ出た水が太陽の光を纏いながら船上を走り、水色の空を映している。「季感のみなもと」を見つめ続ける作者がいる。
玉虫や巫女の頁の濡れてをり 朝吹英和
一読、感覚の「新鮮さ」を感じる。<玉虫>は金緑色で背に紅紫色の二条を走らせた美しい昆虫。法隆寺の「玉虫厨子」には上翅が使用されている。<巫女の頁の濡れてをり>とは何か。辞書の<巫女の頁>が濡れているのを見た私は<玉虫>を思い浮かべたという句意だろうか。歌は中国でも日本でも神に訴える言葉から起こった。神託は神に訴え、それによって神が宣託を下すわけだが、依代として神意を伝える仕事が<巫女>である。<巫女の頁の濡れてをり>という言葉に「死の中の命の輝き」が見えてくる。
花あやめ原子炉青く発光す 眞矢ひろみ
一読、「底なしの不安」が感じる。<花あやめ>は山野に自生する多年草で、花菖蒲に似た紫または白い花を咲かせる。<原子炉青く発光す>とは何か。福島の原発事故は10年経った今も、廃炉作業の終わっていない燃料プールの中には「燃料デブリ」が残っている。かけがえのない日本の大地。まるで等価のように配置された季語が「亡霊」のように浮かびあがる。作者の意図は明確だろう。
胸つんと尖らせてゆく白きシャツ 平林佳子
一読、「命の輝き」を感じる。<胸つんと尖らせてゆく>とは言葉のままに解釈すれば、成熟した大人の作者が自分の肉体を持て余している中学生くらいの少女を眺めている光景が浮かぶ。<白きシャツ>は衣更えで夏の制服シャツをイメージさせる。掲句の季語の中に鮮やかな「季感」とともに、はち切れる「肉体の煌き」に羨望する作者が見えてくる。
陶枕やゆつくり沈む難破船 五島高資
一読、「得体の知れない不安」を感じる。<難破船>とは何か。それはおそらく先進国の中でコロナ対策が後手に回り出遅れて、いまにも「沈みかけている日本」を暗喩化している。<陶枕>は陶器製の枕。取り合わされた季語は作者の「底なしの不安感」を象徴的に表現することで二重化されているのだろう。何故かアルチュール・ランボーの『酔いどれ船』を思い浮かべた。
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「俳句スクエア集」2021年 6月号鑑賞 Ⅲ
五島高資
麦秋の風にモーセの海を見る 石母田星人
一面に広がった黄金色の麦畑は、太陽に映えて波打つ海原のようでもある。そこへ一陣の風が吹き渡ったのであろう。風によって麦が分けられて一筋の道が現れる。そこに作者は、モーセの海割りを想起した。旧約聖書の「出エジプト記」における神の奇蹟である。奇蹟は詩的創造と深く関わっているのである。
玉虫や巫女の項の濡れてをり 朝吹英和
玉虫は、その美しい色彩も素晴らしいが、その出現は吉兆とも言われる。玉虫の「玉」は、暑さを耐えて神に仕える巫女の項を濡らす玉の汗とも通じる。その祈りに現れる幸御魂も連想させる。
木耳を切り落としてる明恵かな 松本龍子
明恵と言えば、専修念仏を広めた法然の易行を批判するなど、釈尊に憧れて戒律に厳しかったことが思い浮かばれる。仏眼仏母尊の前で右耳を切り落としたのもその延長にある。作者は、木耳を穫っている農夫に明恵を彷彿としたのかもしれない。ひたすら日常の生活を営む農夫の姿にもまた仏性が宿っている。
夕立風シャッター街のざわめけり 眞島裕樹
かつて賑やかだった中心都市の空洞化を示す「シヤッター街」。近年では、新型コロナウイルス感染症による影響もあり、特に飲食店などの疲弊が進んでいる。まさに「夕立風」は、そうした地域経済への追い打ちのように門を閉ざすシャッターに吹きすさんで悲しい音を響かせているのである。
母に聞こえぬ晩春の音増える 菊池宇鷹
「晩春」は、気候的にも穏やかな雰囲気が感じられる。音が聞こえにくくなるのは、老齢によるものかもしれないが、そうした晩春という時季にあっては、些細なことに拘らない「母」のおおらかさによるところも大きいだろう。もっとも、大切なことはちゃんと承知しているのも「母」である。
Copyright (C) Takatoshi Gotoh 1998.3.1