「俳句スクエア集」2021年 4月号鑑賞 Ⅰ

                   

                         朝吹英和




阿の口をめざす目刺の煙かな        石母田星人


 阿吽の「阿」は真実や智恵にも譬えられるという。世俗的な目刺を焼く煙が「阿の口」をめざすという諧謔。「めざす」と「目刺」のさり気ない韻も奏功している。



後シテをいざなふ笛や春の雷        和久井幹雄


 能の中入り後に姿を変えて登場する主人公。前半の人間の姿から幽霊や鬼などに変身して登場する後シテの出現を囃す笛方の響きと「春の雷」の喚起力が鮮烈な効果を齎している。


  

雨音の不協かすかに山桜          於保淳子


 雨の音に幽かな不協和音を感知した作者の鋭敏な感受性が光る一句。「一目千本」で有名な奈良県吉野山には古来より山桜が多いと聞く。白や淡い紅白色の花びらは何処か儚さを感じさせるものがあり、幽かに聞こえて来た雨音の不協和音に溶け込んでいる。



ワイパーの拭ひきれなゐ春愁ひ       平林佳子


 ワイパーと来れば雨天の車窓からの景が想起されるが、ワイパーを最速にしても視界がクリアに開けない土砂降りの様子と、視界不良という春愁の心象風景がオーバーラップしている。



凪ぐ海の朧の果てやカノープス       五島高資


 竜骨座のα星であるカノープスは南半球では容易に観測出来るものの、我が国では九州南部や南西諸島に行かないと中々観る事が出来ない。凪いでいる朧夜の海の彼方にカノープスを見つけた感動が伝わって来る。鳴動する宇宙との一体感が感知される。




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  「俳句スクエア集」2021年 4月号鑑賞 Ⅱ

                   

                         松本龍子




阿の口をめざす目刺の煙かな        石母田星人      


 一読、「原郷世界」が見えてくる。<阿の口をめざす>とは何か。言葉のままに解釈すれば、寺社の山門にある狛犬や仁王の片方の口を目指しているという情景になる。別の解釈として、白川静は歌とは神に祈ってそのことを強く求めること、「阿責すること」が原義であり、歌という文字の語源は<阿>にあると言っている。歌とは生存作戦としての「警告」なのだ。掲句は写生だとすると意味の整合性は取れているが、あまり寺社仏閣で目刺を焼くのを見た記憶はない。おそらく「虚構の光景」なのだろう。つまり<目刺の煙=荼毘の魂>は<阿の口=万物の根源>を目指してゆっくりと還ってゆくということだろうか。



貼り紙の目立つ街並みかげろへり       朝吹英和          


 一読、「得体の知れない不安」を感じる。<貼り紙の目立つ街並み>は単なる情景描写の報告に見えるが、<かげろへり>と取り合わされることによって、「重層的なカオス」が生じている。コロナ禍によるローン不払いのホームレス化、飲食店の廃業、フクシマの原発による帰還困難区域。震災・コロナが剝き出しにしたのは言葉に出来ない「悲しみ・悔しさ・もやもやした感情」なのだろう。いくら気休めを言われても解消されない人の「呻き声」が聴こえてくるようだ。



春光よ海のまぶたを持ち上げて        児玉硝子


 一読、「感覚の新鮮さ」を感じる。<春光>は柔らかく暖かい春の陽光のこと。<海のまぶたを持ち上げて>いるような<春光>であるという句意だろうか。掲句は作者の潜在意識から浮かんでくる光を捉えて、波の泡を擬人化することでスケールの大きな「海の生命感」が表現されている。季語が「詩語」として昇華されて見事だ。



巣ごもりのベランダたばこ霾ぐもり      眞矢ひろみ


 一読、「底なしの不安」を感じる。<巣ごもりのベランダたばこ>とは何か。コロナ禍の巣ごもりの中でベランダでたばこを吸っているという情景と解釈しても良いだろう。<霾ぐもり>とは中国の砂塵が寒冷前線に乗って空を黄色に染めること。取り合わされることで、<たばこ>の煙と<霾ぐもり>の色が同化して、日常のもやもやした「壊れやすい心情」が浮き彫りになってくる。



棒切れを提げて目を閉づ春の海        五島高資


 一読、「潮のリズム」が聴こえてくる。現実世界の<棒切れを提げて目を閉づ>ことで「空白の時空」である<春の海>が見えてきたという句意だろうか。それは作者の幼年時代の海岸での光景かもしれないし、十年前の東日本大震災の光景なのかもしれない。海岸の<棒切れ>と<春の海>の波音は「いのちの根源」に触れる感覚というか、懐かしい「はるかな記憶」を呼び覚ますものなのだろう。




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  「俳句スクエア集」2021年 4月号鑑賞 Ⅲ

                   

                     五島高資



阿の口をめざす目刺の煙かな        石母田星人


 「阿」からは、阿字本不生などが連想される。つまり、万物は根源的に不生不滅であることを思う。今、目刺となった魚が焼かれている。しかも、二項対立的観念をイメージしやすい視覚を司る目を潰された魚である。いっそう、真実への接近を感じさせる。そのとき、固定観念は煙となって消えていく。



どの家にも脚を預けず春の虹        服部一彦


 おそらく山や海などを跨ぐ大きな虹なのだろう。しかし、その下には町並みが広がっている。春の虹のめでたさは、どの家にも降り注いでいるように感じられる。もっとも、虹の足が空中で途切れている場合も考えられるが、それでも余慶は遍く届くだろう。



貼り紙の目立つ街並みかげろへり      朝吹英和


 新型コロナウイルス感染症が蔓延して一年半を経ようとしているが、いっこうに鎮まる気配を見せない。罹患して亡くなる方の無念はもとより、それに伴う経済的な打撃は庶民の暮らしを逼迫させている。そうした時節にあって、掲句の張り紙も大変気になる。現実が陽炎のように見えるのも無理はない。疫病こそ糸遊のように早く消えて貰いたいものである。



春光よ海のまぶたを持ち上げて       児玉硝子


 本来、春の海は「春の海ひねもすのたりのたりかな」のように長閑で眠たげである。もっとも、津波のように大波となる場合もあるが、掲句では、春望に大いなる生命の目覚めが感じられる。妙にリアリティのあるスケールの大きな詩境となった。



馬の仔は揺れる時間を生きてをり      松本龍子


 馬は生まれると直ぐに立ち上がらなくてはならない。いつ外敵が襲ってくるか分からないからであろう。人間の赤ん坊のように悠長に構えてはいられない。よろめきながらも自らの足で大地を踏みしめて、一所懸命な姿を彷彿とさせる。その刹那にこそ「生命」が輝いて見える。

 


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