「俳句スクエア集」2021年 3月号鑑賞 Ⅰ

                   

                         朝吹英和




頬刺しの目玉のひかり濡れてゐる         松本龍子


 潤目イワシなどの鰓や口を藁を通して干した「頬刺し」。数匹のイワシが連なっているが干し始めなのであろう目玉の光が濡れていた所に焦点を当てる事によって生命に対する作者の慈しみの心が窺える。



朧夜の終電に聞く京言葉              真矢ひろみ


 「おおきに」、「はんなり」、「ほな」、「かまへん」、「どす」など京言葉にはおおらかさや柔らかい語感が感じられる。特に女性が使う京言葉は独特の魅力がある。朧夜に包まれた終電車での若い女性達の上気した会話が聞こえて来るようである。


  

交差点の真中吹かるる春ショール         松尾紘子


 一読して東京は渋谷のスクランブル交差点の光景が目に浮かんだ。コロナ禍の折、普段より人通りの少ない交差点は風当たりが強いのであろうか、春風にショールを靡かせて渡っている女性の姿が印象的である。



絶海を越すハチクマの寄らずして         和久井幹雄


 「ハチクマ」はスズメバチやアシナガバチ等の猛毒を持つ蜂を主食とするタカ科の猛禽と聞く。我が国には初夏に夏鳥として渡来するが、蜂の攻撃を受けても刺される事がないそうである。五島列島等から直接大陸へ渡るハチクマの潔さと強靭な生命力が感知される。



八衢にコロナ残して二月逝く           五島高資


 八つに分岐している道には収束の方向の定まらないコロナ禍の現状が象徴されており、どの道を行ってもコロナウイルスから逃れられない運命とも読める一句。「二月逝く」の詠嘆の中に遣る瀬無い思いが籠められている。




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  「俳句スクエア集」2021年 3月号鑑賞 Ⅱ

                   

                         松本龍子




海苔炙る指先は北斎の波           石母田星人      


 一読、着想の「意外性」を感じる。言葉のままに解釈すれば、海苔を炙る指先の動きはまるで北斎の波のようであるという句意だろうか。指揮者のような<炙る指先>から見えてくるイメージ、匂い、音。そこに<北斎の波>という「網」が限定されることによって、広大な空間と時間が生まれている。ズームアップされた「波の泡」の<指先>から雲気が立ち昇ってくる。



散骨の船見送りて浅利掘る           朝吹英和          


 一読、「輪廻」を感じる。最近、お墓の維持負担から海への<散骨>がブームだという。それは経済的な事もあるだろうが、進化の過程で上陸する前の「海中生活」を潜在意識から求めている行動なのではなかろうか。人間の生は先祖から子孫へと引き継がれ、ただ「循環」するだけである。作者は縄文人のように、海辺で「循環の相」に包まれながら<浅利>を掘り、先祖とひとつになっているのだろう。



充電器みたいな背中春を待つ          児玉硝子


 一読、発想の「意外性」を感じる。<春を待つ>とは冬半ばを過ぎ、ひたすら春を待ちわびること。<充電器みたいな背中>とは何か。背中には色々な情報を伝達する脊髄や神経が集まっているが、そのことを直喩で表現しているのだろう。<春を待つ>という季語を単なる歳時記からの転用ではなく、作者の世界の内側から立ち上がる「驚き」として使用している。



如月の光吸い込む枝の爪            加藤直克


 一読、「清新なまなざし」を感じる。<如月の光吸い込む>とは何か。陽暦三月の光を吸込んでいるように見えたという、作者の「心象風景」なのだろう。<枝の爪>とはあまり聞かない言葉だが、枝の先がまるで爪のようになっている状態のことのようだ。作者にとって待ちわびた春が近づいている。ふと枝を見上げると雲が流れ、青い空が広がっている。<枝の爪>がまるで<如月の光>を指差すように光を吸込んでいるのだろう。



人体にコロナ潜める朧かな           五島高資


 一読、「得体の知れない不安」を感じる。<人体にコロナ潜める>とは何か。現状のコロナは変異体が増えている。日常的に医療の現場でコロナと戦っている作者にとっては、そのストレスは想像に難くない。日常の寄る辺ないフラジャイル。春の夜のもうろうと霞むように見える<朧>とのアナロジーを発見することで「新しいカオス」が生まれている。どうかルーテイン(散歩・瞑想)のキープをしてほしいと願うばかりだ。




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  「俳句スクエア集」2021年 3月号鑑賞 Ⅲ

                   

                     五島高資



うすらひをかざせば揺るる現世かな        石母田星人


 「うすらひ」とは、薄氷のことであり、春先の寒の戻りなどで水溜まりや池などの表面に薄く張る氷のことである。薄いのですぐ手に取ることができるが、表面が一様ではないため、それを透けて見える世界は歪んで見える。もっとも、私たちの角膜も表面にも微小な凸凹があるので厳格に言えば正確に物を見ることはできない。それを現実と信じ込んでいるだけである。「うすらひ」は、そうした固定観念を揺さぶるものとして、改めて現実とはなにか、あるいは、この世とは何かということを私たちに問いかけて止まない。



按摩針灸梅咲く道の奧にあり           服部一彦


 東洋医学では、人体に巡っている経絡という気の流れの滞りによって病が生じるとされる。按摩や針灸もその経絡に刺激を与えることによって、気の流れを正して病を治す。近年になって、これまでよく分からなかった経絡の実在とそれを介した病気の治療が可能であることが、WHOでも認められている。目には見えない気の導線が体中に張り巡らされている。手で梅を触れば梅の気とも通じることができる。施療院が梅の咲く道の奥にあるだけでなく、作者はすでに梅から良い気を頂いているのかもしれない。



散骨の船見送りて浅蜊掘る            朝吹英和


 五島列島でのことであるが、私が小学生くらいまでは土葬が残っていた。実際、私の祖父も土葬だったが、数十年後に掘り起こして骨壺におさめたのを憶えている。結局は骨壺に入れられるのだから、火葬後に遺骨を骨壺に入れて納骨堂などに安置するのと変わりない。しかし、近年では、遺骨を海に散骨することもなされている。生命の源である海へ帰るという意味では自然だと思う。「浅蜊掘る」からは、生生流転という自然の大いなる循環が彷彿されて散骨とも共鳴すると思った。



充電器みたいな背中春を待つ           児玉硝子


 冬はどうしても生き物は動きが鈍くなる。餌の少ない時期でもあり、あまり、体力を消耗させたくないという本能が働くのだろう。それは動物も人間も同様である。じっくりと鋭気を養う姿なのだろうが、鋭気も電気も同じようなものである。「充電器」という表現に春の活躍が期待される。



大石忌ことばの上に雪が降る           松本龍子


 大石忌とは、旧暦二月四日。大石内蔵助良雄の忌日。大石が率いる赤穂浪士が、主君・浅野内匠頭長矩の遺恨を晴らすため、吉良上野介を討ち取ったことはよく知られている。もっとも、将軍のお膝元での戦闘は、許されるものではなかったが、忠君の志は公儀にも諒解するところがあったのだろう。あくまで武士として切腹が命じられたのはその証左である。「あら楽し思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし」という大石の辞世からは念願が叶った喜び伝わってくる。結句に込められた「苦もなし」を思えば、まさに「抜苦与楽」の至境がうまく詠み込まれている。討ち入りの日も雪であったが、大石忌にも春の雪が降る。作者は、この一連の出来事で交わされた様々な言葉が様々な人々にとってかけがえのない重みを持つことを思ったのだろう。春の雪はそうした言葉を優しく包み込むのである。


 




 


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