「俳句スクエア集」2020年 11月号鑑賞 Ⅰ

                   

                         朝吹英和




溜息が刺さつてをりぬ鵙の贄           石母田星人


 猛禽類の鵙の犠牲となった昆虫や鼠などの小動物が木の枝に刺さっている。鵙の贄が溜息であったとする意外性に富む発見には諧謔味が滲み出ている。



爽節といえど身の内風止まず           服部一彦


 爽やかな秋の到来にも拘わらず、心の中を吹き渡る風は止むことを知らない。難儀な事案を抱えているのであろうか、爽やかさと不安な気分や鬱陶しさの対比が実感される。



夢の端を燃やしてゐたり落葉焚き         松本龍子


 落葉焚きには芋や栗などの食べものや、時には記憶から消し去りたい手紙なども投げ入れられるのであろう。燃やしたい夢の端とは何であろうか。読み手の想像を喚起させる一句。



赤とんぼ空の軽さを羽ばたけり          加藤直克


 澄み渡った秋の空。自由自在に羽搏く赤とんぼの姿に透明感溢れる秋空の軽さを感知した作者の繊細な感受性。

           


望の夜や豊かの海へ帆を上げる          五島高資


 仲秋の満月を眺めながら様々な思いに耽るひととき。月面の盆地である「豊かの海」は可能性を秘めた未来の象徴であり、掲句は未来に向かって出帆する決意表明である。






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  「俳句スクエア集」2020年 11月号鑑賞 Ⅱ

                   

                         松本龍子



 瓢箪のくびれに坐る火星かな         石母田星人


 一読、「直観的把握」を感じる。<瓢箪のくびれに坐る>とは何か。写生句とみれば、瓢箪の実の中ほどが細くなる部分に火星が坐るように見えているという句意。暗喩とみれば、夜空に浮かぶ瓢箪のような雲がくびれの位置に火星が見えているということだろう。今年の10月初旬に火星と地球が2年ぶりに急接近した。手前の<瓢箪>を通して見える<火星>を取り込むことで、地球の星に生きていることを再認識している作者が見えてくる。



赤とんぼ空の軽さを羽ばたけり        加藤直克


 一読、「詩情」を感じる。<空の軽さ>とは何か。 見立てとみれば風の比喩、暗喩とみれば空中の比喩になるのだろうか。いずれにせよ、この表現には意外性がある。禅では<空>を深い静けさと呼ぶが、その中を軽々と飛ぶ<赤とんぼ>を描くことで時間の生成と空間の幻出に成功している。<赤とんぼ>の飛翔の中に、生きていくことの軽やかさに共感している作者がいる。



着陸の影横切って秋の昼           生田亜々子


 一読、「朦朧性」を感じる。<着陸の影横切って>とは何か。飛行機などの物体が着陸態勢に入ることで、大きな翳が近づいてくる。それを自動車または徒歩で横切ると、立秋後の空に澄んだ、爽やかな昼が見えたという句意。<着陸の影>の暗さがあるために<秋の昼>の明るさが強調されている。中七の<影横切って>で時間の経緯を描くことで、読者には「曖昧な」物体の黒と<秋の昼>の明瞭な空間が見える仕組みである。



無花果の花の心をすくいけり          於保淳子

       

 一読、「感謝の祈り」を感じる。無花果を以前は貪るように食べていたが、果実として食べる部分に無数の白い花を咲かせることを知ってからは、花の命をいただくことのありがたさを嚙みしめるようになったという句意だろうか。普段誰も気に留めない印象を、こういう印象表現に変換してみせるところに、作者の巧みな技術と同時に俳句の面白さを再認識してしまう。自分の命をつないでくれる<無花果の花の心>に思いをはせる作者が見えてくる。



金木犀デパート遠くなりにけり        五島高資

       

 一読、「諦観」を感じる。構造としては3つのレトリック。まず現在と過去の時間を重ねるレトリック。<デパート遠くなりにけり>によっていったん過去に向かった時間を現在へと手繰り寄せている。もう一つのレトリックは「二物の取り合わせ」で可視化された季語<金木犀>とそれに触発された不可視の<デパート遠くなりにけり>という心中の感懐。最後の重要なレトリックとしては季語<金木犀>の象徴的な働きが意図されている。平成、令和と時代が移ることで高齢化と少子化によって、デパートからショッピングセンター、ネット通販、フリマアプリへと需要が変化した。<金木犀>の華やかな色を見た瞬間に、少年時代の「浮かれ心」が甦ったということだろう。



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  「俳句スクエア集」2020年 11月号鑑賞 Ⅲ

                   

                     五島高資



瓢箪のくびれに坐る火星かな        石母田星人


 大巧如拙筆「瓢鮎図」を思い出す。瓢箪で鯰を捕らえるのは不可能である。しかし、そこには竹が描かれており、中国の古い諺「鯰が竹に上る」(不可能あるいは可能という両義的な解釈がある)が付加されおり、場景は眺める人の心次第ということになる。掲句では、詩的なパースペクティヴによって火星はうまく瓢箪に捕らえられている。二項対立を昇華する詩性の深さに感銘する。



秋うらら地蔵菩薩に猫集ふ         朝吹英和


 今の時代、お地蔵さんに子供が集まることはめったに無いだろう。ここでは代わりに猫たちが集まっている。動物虐待が問題化している昨今のご時世は、単に動物の世界に止まらず、人間の世界にも隠れているように感じられる。釈迦の入滅後、弥勒菩薩が出現するまでの、仏不在の長い間、地蔵菩薩に頼らねばならない。これから寒くなる季節にあって、日和はもとより心の麗らかさが続くことを願うばかりである。



爽節といえど身の内風止まず        服部一彦


 「爽節」は、秋の別名。夏の暑さから解放された、文字通りの爽やかさが感じられる言葉である。そうすると掲句において止まぬ「風」とは、涼風とは別の意味合いが想像される。もちろん、個人的な問題かもしれないが、社会に目を移せば、一向に収まらない新型コロナウイルス感染症の蔓延を危惧する心の風とも取れる。最近、再三にわたって件の感染者数が急増しているが、早々の終熄を願うばかりである。



常夜から客が来てゐる石蕗の花       松本龍子


 昼間でも石蕗の花は闇を照らしているような趣がある。それはその広い葉が深緑であること、あるいは日陰を好む生態によるものかもしれない。いずれにしても、その花の周りは陰鬱な雰囲気がある。明るい黄色の花だけになおいっそうである。真っ暗闇の世界から来た人あるいは魂の迎え火として相応しい様相を呈している。



赤とんぼ空の軽さを羽ばたけり       加藤直克


 秋の大気は澄み切っている上に、高くなれば高くなるほど空気は薄くなる。赤とんぼは上昇すれば上昇するほど、いっそう羽ばたかなければならない。小さな生物の果敢な営為に生命の力強さを感じると共に天空の秋をしみじみと感じさせる。

 


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