「滑稽」における真の主体


五島高資


 さて、藤原清輔は『奥儀抄』において、俳諧の本質を滑稽とし、それを単なる狂言としてではなく、『史記』の滑稽伝に拠りながらもっと積極的意義をそこに与えている。栗山理一氏によれば、そこに示される滑稽の要素は「談咲・和解」「利口・諷諫」「狂」「即興」の四つに要約されるという。

第一の「談咲・和解」の「咲」は「笑」の古字であり「咲く」は「裂く」つまり「切れ」に通じる。第二の「利口・諷諫」は機知的で婉曲的だが事物の本意を穿つものでなくてはならない。これは、山本健吉氏がいう俳句は寓言詩ということにも通じる。第三の「狂」は、正統よりは反正統、非理の理を選ぶ破格の精神とされているが、これは、芭蕉の「夏炉冬扇」の精神にも繋がるものであり、先程来述べているように、二項対立的固定観念に支配された常識を覆したところに「真実」が洞見されるということである。第四の「即興」は、句会におけるいわゆる「袋回し」という極短時間に即吟しなければならない場合を考えると良いだろう。切羽詰まって理性に照らす間もなく口から出任せに吐いた句に、却って妙味があったりする。それなどはまさに無意識的な直観的真実の発露である場合が多い。大坂・住吉神社の境内で「神力誠を以つて息の根留る大矢数」と称して一昼夜に二万三千五百句独吟興行という破天荒の事件を起こした井原西鶴もまた意識朦朧とした状態の中から、神懸かりな無意識的直観に身を任せて、常識的固定観念を脱却して俳諧の「真実」に迫ろうとしたと考えられる。

 いずれも滑稽とは常識的な固定観念を開裂し「ものの本質」を曝露する作用を持つ。しかし、その滑稽の第一に「談咲」とともに「和解」が挙げられていることに注意を要する。つまり、滑稽の「稽」が示す分別的思考を滑るだけでは、単なる出鱈目に終わってしまうのである。せっかく滑稽によって開示された物事の「真実」を保証するものこそが、直観的無意識という共有感覚による「和解」なのである。この談笑裡に共有される直観的無意識に裏打ちされて初めて、滑稽という意外性の面白さの中に「真実」さらには「主体」の現存在をも見出すことができるのである。

 「私はひとりの他者である」とは、ランボーの言葉である。主体としての「私」が何ものであるかを説明するために、「私は、こういうもので、云々」と言葉を尽くしてみても、「私」の属性は示せても主体の本質を明らかにすることは難しい。主体が語る主体とは二項対立的観念のなかで止めどなく空回りするものだからである。よって、主体は主体以外のもの、つまり他者の言葉の中に立ち現れるものとして捉える以外にはないのである。この他者の言葉とは、則ち、絶対的他者としての無意識的言表なのである。J・ラカンが言うように「無意識は言語のように構造化されている」とするならば、意識や理性を超える詩的創造においてこそ、初めて真の主体が見出されるのである。つまり、俳句における滑稽の精神もまた「切れ」と同じく、言語における二項対立的観念を断ち切ることによって「一句の主」という真の主体を観照する方法なのである。しかし、滑稽や「切れ」における言葉と言葉の新しい関係性は、単に難解で支離滅裂なものであってはならず、他我あるいは「もの」と心を結ぶ直観的共有感覚に保証されてはじめてそこに普遍的芸術性が獲得されることを忘れてはならない。そして、「季題」における美意識もまた日本人における直観的かつ無意識的共有感覚として俳句における詩的創造に深く関わっているのである。